台湾人生(台湾人生)
story
台湾が日本統治下にあった時代に青春期を送った、5人の台湾人たちのいまを追う。
花蓮懸瑞穂郷。霧に包まれた茶畑で茶摘みに精を出すヤン・ツィーメイさん(1928年生まれ)は、かつて日本人が経営するコーヒー農園で働いていた。たどたどしい日本語は農場で覚えた。茶畑で共に働く老女たちにも、日本語を話せる人たちがいる。仕事一筋で生きてきたヤンおばさんは今も現役。旧正月に子どもたちが帰って来るのが楽しみだ。
台湾原住民・パイワン族出身のタリグ・ブジャズヤンさん(1928年生まれ)は、原住民の権利確立を目指し、立法議員を15年務めた。末期癌を患っているタリグは、高雄の三男を訪ね、故郷への旅をプレゼントされる。懐かしい友人たちと日本語で語り合ううちに、積年の思いが込み上げて来る。(タリグさんは、08年7月、映画の完成を見届けて他界。最期の言葉は日本語だった)
蕭さん(1926年生まれ)は、ビルマ戦線で戦った元日本兵。終戦後は二二八事件で拷問を受け、白色テロで弟を亡くすという過酷な運命も乗り越えて来た。今は台湾総督府と台北二二八記念館でボランティア解説員を務め、台湾や日本の若い人に歴史を伝えている。
クラス一のおてんばで優等生だった陳さん(1926年生まれ)は、基隆の同窓会に出席。皆で日本語の校歌を歌う。女学校へも進学した陳さんは、日本人としての作法も完璧に身につけている。夫との会話はいまも日本語。「男だったら特攻隊に志願した」と言い切る度胸は今も健在で、台湾独立運動を支持している。
宋さん(1925年生まれ)は、小学校の時の担任だった小松原先生が忘れられない。厳しい先生だったが、貧しさから中学退学をを考えていた宋さんを励まし、黙って5円札をくれたのだ。「絶対に成功します」と誓った宋さんは、戦後30年を経て先生の消息を探し当て、再会。先生が他界した後も、千葉県にある先生の墓参りを毎年続けている。
●アジコのおすすめポイント:
台湾と日本の歴史を知ったのは、ホウ・シャオシェン監督の名作『悲情城市』でした。台湾には日本語の話せる人がいっぱいいるのを初めて知り、当時カルチャーショックを受けたものです。最近だと、ジェイ・チョウ(周杰倫)のお婆ちゃんが日本語ペラペラですし、「トゥーランドット」で来日したアーメイ(張惠妹)のお婆ちゃん世代も日本語。台湾に親日家が多いのも頷けます。が、歴史とはもっと過酷なもの。その後、日本から中国籍となり、その狭間で青春時代を過ごした人たちの思いは複雑です。真珠湾攻撃の暗号で知られる「ニイタカヤマ」が台湾にあることも、この作品で初めて知りました。風化させてはならない貴重な歴史の記録としてご覧ください。
▼公式サイト 閉じる
|