ボストン1947(1947 ボストン/Road to Boston)
story
1936年、ソン・ギジョン(ハ・ジョンウ)はベルリンオリンピックのマラソン競技で世界新記録を出して優勝。金メダリストとなるが、当時は日本統治下。日本代表としての参加で表彰式でも日本国家が流れ、彼は胸元の日章旗を月桂樹の鉢植えで隠してしまう。だが、そのせいで引退を余儀なくされた。1945年8月15日、朝鮮半島は解放されるが、アメリカとソ連の管理下に置かれた。
1946年。ソウルでソン・ギジョン10周年記念マラソンが開催され、高麗大学のソ・ユンボク(イム・シワン)が優勝。ロンドンオリンピックの出場を目指すナム・スンニョン監督(ペ・ソンウ)が、彼の才能を見抜いてスカウトしようとするが、貧しいユンボクにとってはメダルより賞金。今回もバイト先の友人ドング(オ・ヒジュン)に賞金が出ると騙されて出場したのだった。
ソン・ギジョンは引退後、酒浸りの生活を送っていたが、ベルリンで一緒に銅メダルを獲ったナム監督は彼とチームを組み、ロンドンオリンピック出場を考えていた。そのためには、国際大会への参加歴が必要と米軍政庁から言われ、4月のボストンマラソン出場を提案される。ボストンマラソンではジョン・ケリーがソン・ギジョンの贈った靴で優勝している。彼に頼めば招請状を送ってもらえるはずだ。
ナムは乗り気でないソンを説得。ジョンに手紙を送り、招請状が届く。条件はソンが監督になること。ナムは喜んで監督職を譲り、自分は選手として出場することに。ただ、有望な選手がいない。ユンボクは金のことしか頭になく高慢だ、とソンは拒否するが、彼の家を訪れたナムは母親が重い肝臓病なのを知り、こっそり生活費を渡して参加させる。
だが、入院していた母が急逝。バイトに出ていたユンボクは間に合わず、ソンが母親の遺言を聞いていた。「走らせてやりたい」という母の願いを伝えると、ユンボクは心から参加を決意。仲間と共に厳しい訓練に励む。
当時、大韓民国はまだ難民国で、独立国家とみなされていなかった。そのため、ボストンマラソンに出場するには、900万ウォンの保証金と現地での保証人が必要。保証人は現地のツテで在米韓国人のペク・ナミョン(キム・サンホ)に依頼できたが、米軍政府は金を出さず、支援金もない。やむなく、マスコミや市民の前で盛大な出征式を開いて現状を訴え、世論を動かして資金調達に成功した。
そして、やっとボストンへ。ソン・ギジョンはジョン・ケリー(ジェス・マーシャル)との再会を喜び、3人はペクを通訳に陸上協会へ出場登録に行くのだが…。
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