documentary
パク・スナムは1935年に日本で生まれた在日朝鮮人2世だ。当時の皇民化教育を受け、皇国少女として育つが、10歳の時、美しいチマチョゴリを着た母が石を投げられ罵声を浴びる。チマチョゴリの中に逃げ込んだ少女は、その時から自身のアイデンティティについて意識し始める。
朝鮮半島が38度線で南北に分断されたまま、植民地から解放された。スナムは朝鮮学校で祖国の歴史と文化を学び、民族としての魂を取り戻していく。焼肉屋と作家活動を続け、娘には好きな歌「麻衣太子」から「麻衣」と名付けた。作家活動はやがて映画製作に向かっていく。
今年で90歳を迎えるスナムの家には、約40年前から撮り続けた50メートル以上の16ミリフィルムと取材した音源が残っていた。大量の貴重な未使用素材。娘の麻衣も母の映画を手伝っており、これらの素材を劣化する前にデジタル化し、1本の映画にしようと考える。
娘は母の人生の記録として、母は真実を伝える作品として。映画の方向性で激しく衝突する二人。1週間後、スナムが脳梗塞で倒れる。その後、回復したスナムから昔の話を聞く麻衣。スナムが作家活動を始めたきっかけは、1958年の小松川事件だった。
定時制の女子高生が殺され、18歳の犯人イ・ジヌ(李珍宇)が自白して逮捕される。他にも余罪があった。差別社会を恨んでの犯行だったが、死刑判決を受ける。日本の著名な文化人たちから助命嘆願運動があり、スナムも参加するが、判決から4年後、異例の速さで絞首刑が執行された。
当時は北朝鮮への帰国事業が始まっており、北朝鮮にルーツを持つスナムは朝鮮総連の記者として活動していた。だが、総連から活動を禁じられて組織を離脱。犯人とやりとりを続けた手紙の往復書簡集「罪と死と愛と」を出版し、ベストセラーとなる。スナムは被害者家族にも取材をし、関東大震災当時の朝鮮人大虐殺のことを知った。
以後、スナムは一人で活動を続け、朝鮮人被爆者や軍艦島の徴用工、沖縄の軍属や慰安婦などの取材を続けていく…。
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