シンガポールの敏腕音楽プロデューサー
リー・ウェイソン(李偉菘)氏が語る現在の中華ポップス。
−リー・ウェイソン(李偉菘/Paul Lee)
現在、中華ポップスシーンでは続々とシンガポール出身のアーティストが登場しています。古くはエリック・モー(巫啓賢)、キット・チャン(陳潔儀)、最近ではタニア・チュア(蔡健雅)、ステラ・ン(黄湘怡)、アドゥ(阿杜)、JJリン(林俊傑)、新人のイーダ(黄義達)などなど枚挙に暇がありません。
中でも新しい中華ポップスの女王とも言えるステファニー・スン(孫燕姿)の登場は、中華ポップスの新しいページを開いたと言ってもよいのではないでしょうか。そのステファニー・スンの才能を発掘し、育て、プロデュースしたのが今回インタビューに応じていただいたリー・ウェイソン(李偉菘)氏です。
彼自身もかつては、双子の弟である李偲菘(ピーター・リー)氏と共にユニットを組み、シンガポール・マレーシアを中心に歌手として活動し、台湾にも進出した一人です。その後、兄弟揃って音楽プロデューサーへと転向し、中華ポップスシーンで実に多くのヒット曲を生み出してきました。今回はそんなシンガポール出身の音楽人の先駆けとも言えるリー・ウェイソン氏に、現在の中華ポップスについて語っていただきました。
(以下、S=インタビュアー、L=リ−氏)
●多民族国家の背景を生かした音楽環境
S「まず、シンガポールにおける中華ポップスの現状についてお聞かせください。」
L「シンガポールの中華ポップスの環境は、その文化と密接な関係にあると思います。シンガポールを構成する4つの主要な民族(中華系、マレー系、インド系、欧米との混血のユーレイジアン系)の文化の影響をとても受けています。そして欧米の音楽もインドの音楽も、日本や韓国の音楽も聞くなど、とてもバランスが取れていて、どこかひとつの影響を大きく受けているというわけではないと思います。そういった中で、シンガポール産の中華ポップスは、この10〜15年で、だんだん国外のリスナーにも受け入れられるようになったと言えるのではないでしょうか。
僕と弟で組んだユニットは、台湾でアルバムを出したことがあるのですが、その時、李宗盛(ジョナサン・リー)*や香港の欧丁玉(マイケル・オウ)*などの音楽人と知り合うことができました。彼らは僕らに、自分たちの作品を発表する機会をたくさん与えてくれ、それらの作品を通した交流によって、シンガポールの音楽に触れる機会を逆に皆に与えることができたと思っています。
その後、ただ歌手に作品を提供するだけでなく、曲やアルバムのプロデュースにも参加するようになり、自然にシンガポールの音楽人、例えばアレンジャーやギタリストやその他の楽器の演奏者なども参加するようになってきたのです。そうして10年が経ち、音楽業界でもシンガポールの音楽人の存在というものが広まってきたといえるでしょう。」
●テレビ局主題歌制作から創作の道へ
S「では、ご自身が音楽にこれだけ関わるようになった背景を教えていただけますか?」
L「僕や弟(李偲菘*)や梁文福*や巫啓賢*、黎沸揮*、許環良*などのいわゆるシンガポールの音楽人というのは、期せずして大体80年代前半頃に創作を開始しました。当時、僕らのことを人々は「新謡」と呼んでいました。多くの人々は「新謡」というのは「校園民歌*」だと思っているみたいですが、実は「新加坡的歌謡」(シンガポール産のポップス)の意味なのです。そういう意味では、シンガポールの中華ポップスというのは、この頃に成長を始めたのかもしれません。
でも、僕と弟が創作活動を始めたのは「校園民歌」ではなくて、テレビの連続ドラマの主題曲からでした。当時、シンガポール初の連続TVドラマ*が制作されることになって、テレビ局で主題歌を公募したコンテストを開きました。そこで、弟と一緒に一曲ずつ作ってコンテストに参加したら、なんと二人とも決勝まで進んでしまいました。以来、テレビシリーズのために何百もの曲を書くようになりました。
TVドラマ主題歌の作曲は、普通の校園民歌の曲風だけではだめで、ドラマに合った曲を、その曲を歌う歌手のためにオーダーメイドで作らなければいけなかったので、曲作りはとても難しかったのです。特に時代劇の場合は大変でした。その時代に生きていたわけではないので、当時の歌がどんなものだったかということもわかりませんし…。
ちょうど父が、仕事の関係で中国との間を行き来していて、出張のたびに中国各地、例えば広東や上海などの沿岸地域や、内モンゴルやシルクロードの内陸部の音楽のアルバムを買って来てくれたので、いろいろ聴いていました。なので、テレビ局の番組制作会議に出席して「このドラマはこの時代で、舞台は北京」などという説明を受けては、家に帰って自分達のコレクションをチェックし、曲作りの参考にしていました。曲の時代考証は特にしっかりしていなければなりませんでしたから。
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