●Asicro People ではアジアと日本をつなぐ様々な活動をしている方たちをご紹介していきます。
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関谷元子さん(ポップアジア編集長)
第1回目は「アジアンポップス」と言えばこの人! アジアの幅広い音楽を日本で紹介し続けている音楽評論家、関谷元子さんの登場です。『ポップアジア』誌の編集長、またNHK-FM『アジア・ポップス・ウィンド』(毎週月/23:20-)のDJとしても活躍されている他、文化庁主催の『POP ASIA』イベントや様々なアジアのアーチスト・コンサートにも協力しておられます。(以下、アジクロ、S=関谷さん)
●アジアの音楽との出会い
80年代のワールドミュージック・ブームの頃は、ラテン音楽やアフリカの民族音楽、アーチストを紹介していたという関谷さん。アジアの音楽と出会うきっかけはどういうものだったのでしょう?
S「何かのきっかけで、ふっと台湾に行った時に、台湾は面白いなあと思ったんですね。当時はまだ、そろそろ戒厳令が解けそうかなあという頃で、街としてはぜんぜん今みたいにかっこいい部分はなかった頃なんですが、ここは好きかもと思った。それで、CDを30枚くらい買って人知れず…。その頃の日本では『台湾の音楽知ってます』といっても仕事にはならなくて(笑)。私はわりとメイン・ストリームじゃない音楽が好きなんですよ。だから、日本でこっそり一人でアジアをやっていようと思った。アジアのライターさんを。
それで、80年代のワールドミュージック・ブームの頃は、ラテンとかアフリカのミュージシャンを呼んで…みたいなことをやっていたんだけど、その後にバブルがはじけて、アーチストも来なくなり、世の中がなんとなく『関谷さんて、台湾の音楽とか中国人の音楽知ってますよね?』てことになってきて。80年代の終わり頃かな。」
そろそろ香港ブームになってきた頃ですね?
S「香港映画が好きな人たちは、もっと前からアジアや香港の文化に触れていたんです。私はなんとなく台湾が好きだったので、台湾から中華圏に入っていったんですね。で、台湾のレコード会社や音楽業界の人たちと親しくなって、一緒に食事したりするようになっていった。
あの頃、台湾と香港とははっきり色が分かれていて、どちらかというと香港の人たちは『台湾って田舎っぽいね』て感じで、香港は全盛期で最高にかっこいいと。四大天王がそろそろ決まってくる時期だし、ほんとにすごい時期だった。だから、台湾の人からみると、香港はチャラチャラしてるイメージがあって、私も音楽評論家だから、あまりスターには興味がなくて、なんとなく台湾の人と同じ気持ちになってたんです。
そんな時に、台湾の音楽業界の人が『あいつだけはほんとにいいよ。人柄もいいし実力もある。』と言われたのが、ジャッキー(ジャッキー・チュン=張學友*)でした。『ふ〜ん、それじゃ聴いてみよう』ということになって、そこから香港を聴くようになり、あたりまえなんだけど、やっぱり香港には香港の凄い力があるし、そこから中国へも入っていったんです。
当時、台湾で一番仲良くなったのがロック・レコード*の人たちだったので、ばりばりの北京ロックとかフェイ・ウォンの元旦那さんのドウ・ウェイ(竇唯)とかもよく聴きました。ああいうのはぜんぶ、台湾人たちがプロデュースしてるんですよ。アイ・ジン(艾敬)なども含めて。」
そういえば、羅大佑(ロー・ターヨウ)とかいましたよね。
S「そうそう。羅大佑は最初の頃に好きになって、すぐにインタビューしに行った。」
羅大佑で思い出しましたが、関谷さんはフジテレビで昔放映されていた深夜の音楽番組『アジアン・ビート』*にも関わっていらっしゃいましたよね?
S「出てました。私は羅大佑が好きだから『彼のPV送って〜』て台湾に言って…。」
羅大佑とかジェリー・ロー(羅百吉)とか、アーチスト色の強い人たちが紹介されてましたね。
S「あの頃は、PVなんかどうやって集めたらいいのかわからないので、私が台湾ロック・レコードの友達に電話すると、後のマジックストーン・レーベルの人が揃えてくれていた。だから、どうしてもロック系アーチストのPVみたいになってしまって…(笑)。ま、そこからアジアに行くようになった訳です。」
何かを好きになってそこから外へ広がっていくというのがありますが、関谷さんの場合は、広い音楽の世界からアジアへと入っていかれたんですね。
S「積極的に面白いなあと思ったのは台北です。人間が凄くいい人たちが多いから。友達が増えれば増えるほどほんとによくしてもらえて。当時の私はまったく北京語がわからなかったんだけど、そうすると『とにかく英語のできる奴を呼んでこい!』と。業界の人たちみんなに助けてもらって、ずっと来てる感じがします。」
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