●人生の転機
M「その頃、年齢のこともあって、ちょっと急いでたんですね。趣味としては、香港は近いからしげしげ行ってたし、忙しくてもちょっと休みを取って通うには近くてよかったんですが。最後に勤めていたのがマーケティングの会社で、たまたま社長が『これからはアジアの時代だ!』てぶちあげた年があったんです。で、社内がとてもアジアに友好的なムードだった。
私はプランナーだったんですが、3年ほど社長の秘書をしていて、ちょうどその時はずっぽりはまってる時で、秘書ブースの壁にいっぱいアンディ・ラウが貼ってあって(笑)、社長にもアピールが済んでいたので辞めやすかったんです。『社長はこれからはアジアの時代だとおっしゃってましたし、ご存じのように、私もこのようにはまっておりますし…』と。
当時はまだ返還前で『どうしても返還を見たいんです。でも返還を見るためには、たかだか歴史150年とはいえ、ちゃんと香港のことを勉強をしてから見たいので、その準備期間が必要なので辞めさせてください』って言って、辞めたのが94年の11月30日だったんです。会社中の皆がほんとに暖かく拍手をして送りだしてくれて『そっちをやった方がいいですよ。菜穂さんは』という感じだったので、円満退社をしました。
幸運なことに、辞めてからすぐに仕事が入りました。当時は、専業でアジア、しかも香港に限ったネタを書いている人はいなかったんです。映画評論家とか音楽評論家の方たちはいましたけど、ライターとして専門でアジアをやってる人はいなかった。なぜかというと、私も知らなかったんですけど、それじゃ生活ができないから。ところが、会社を辞めて何もすることがないので『そんなに暇だったら取材に行ってください』って、人の紹介で取材の仕事が入って来て、ほんとに幸運でした。それが『香港マル楽生活読本』(スターツ出版)だったんです。
依頼されたのは、街ネタでした。結婚事情とか、広東語事情とかそういう文化的なことです。そして、私が劇的に変わったのが『香港発熱読本』(宝島社)のロケ地巡りなんです。こういうのをやった人は私が初めてで、これを読んでくれたファンの方にすごく評価してもらったんです。その時は、編集者の方から『何ページあげますから好きなことやっていいです』と言われて、向こうからの企画がなかったので、『じゃあ、ロケ地巡りをさせてください!行きたい所に行かせてください!』って言って、映画も全部勝手に行きたい映画を選んでやったんですね。これが、私をこの仕事にのめり込ませるきっかけになったんです。」
その本は私も持っています。時期的にもよかったですよね。香港映画がすごく元気な頃で。
M「そうです。これが私を香港映画だけでなく、香港の土地そのものにのめり込ませるきっかけになりましたね。私はよく『◯◯だけのファン』にお説教するんですよ。彼のことが知りたいんだったら、香港がどんな街かを知らないと、ほんとうの理解はできないでしょ?て。彼がどんな教育を受けて来たか?じゃ香港の教育制度はどうだったのか?ってところまで知っているともっと理解ができるのにって。並行してそういう勉強をしていると、さらに映画が深くわかるじゃないですか。
例えば、今はもうないんですけど、『いますぐ抱きしめたい』(*7)に出て来る調景嶺という所は、国民党の残党が中国から台湾に渡れなくて、そこに押し込められちゃった『陸の孤島』と呼ばれる所なんです。今はもう開発で全部追い出しちゃったんですけど、それも勉強をすれば意味がわかることで、やっぱりロケ地を探す楽しさ、ロケ地を訪ねればもっと映画が好きになるっていうのが自分でわかった。それ以来、皆にそればっかり言ってますね。」
●香港アディクトクラブの発足と顛末
M「話が前後しますけど、92年頃からかな。まだお勤めしていた時に『香港アディクトクラブ』っていう会員紙をやってたんです。まだインターネットとかない時代で、自分でワープロ打って、切り貼りして写真とか貼ってコピーして…。会員が500人位いて、一応会費はいただいてましたが、ほとんどが持ち出しでした。当時は2ヶ月に1回くらい香港に通っていた頃で、香港スターのコンサートには全部行ってた。映画とかコンサートとか、2ヶ月に1回も行ってこんなに情報を持っているのに、一人で楽しんでるのはもったいないと思った訳です。それで、香港で買って来た雑誌や記事を翻訳して作っていたんです。
ところが、突然なくなったんですね。なぜかというと、会社からもらった古いMacで会員名簿を管理していたんですが、ボンッて火を吹いたんですよ。テレビみたいに火が出た(笑)。データが飛んで呆然自失…。」
(驚!)…それでなくなったんですか?
M「そう。会費を取っているので、何人かよく知っている人には連絡を取って、わかる限りの人にはお金を返したけれども、不公平になるからそれ以上のことはしないで、知ってる方たちに事情説明の伝言をお願いしたんです。有り難いことに、ほとんど苦情は来ませんでした。逆に今でも年賀状をいただいて感謝しています。
そこへ、うまい具合にインターネットが出て来たんです。もしその後に、インターネットが出て来なかったら、皆さん不満に思ったと思うんですね。すごく楽しみにしてくれてたので。びっちりB4裏表で3〜4枚、月1回で年4000円だったかな。情報が枯渇して求める気持ちが強いと恨まれたでしょうけれど、うま〜い具合にパソコン通信やインターネットの時代に移行して幸運でした。しかもたくさんのスターが日本にしげしげと来るようになって、会えると気持ちが満足するじゃないですか。その流れに助けられました。
私ってある意味、低空飛行の達人なんです(笑)。高くは飛べないけれど、低いところで墜落しない。私が本を書いたりすると、前の会員の方からお手紙をいただいて、活躍してくれてうれしいと言ってくださって。そういう方たちが本を買ってくださる訳ですけど、やっぱり『香港アディクトクラブ』をやっていたから、ファンの中で認知度が上がったと思うんです。私の名前は覚えやすいっていうか、芸能人の名前みたいに思うらしいんですね。名前として、字づらとしてインパクトがあるらしくって、それもプラスでした。
本気で営業したのは1回だけなんです。それは、関谷さんが編集長になる前のポップアジアで、読者カードに『どういう人に書いて欲しいですか?』とあったので『私』って書いたんですよ。そうしたら、当時の編集長が『あんた面白い人だね』って電話をくれて、それでジャッキー・チュンのコンサート・レポート(95 年の香港公演)を書いたのが、初めての仕事なんです。」
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