●Asicro People ではアジアと日本をつなぐ様々な活動をしている方たちをご紹介していきます。
file no.2
水田菜穂さん (アジアン・ライター/字幕翻訳家)
第2回目は香港映画に関する幅広い執筆活動と、最近は映画/DVDの字幕翻訳でも活躍されている水田菜穂さんをクローズアップ。映画『美少年の恋』の日本公開時には、ヨン・ファン監督から厚い信頼を受けて奔走されたり、またBSQR『アジアン・パラダイス』のDJ(2003年3月まで)をされたりと、多方面でパワフルに活躍。そして今話題の映画『カンフーハッスル』の字幕監修も担当されています。
もともとは普通の映画ファンだった水田さん。それが、ひょんなきっかけから香港映画にはまり、持ち前のバイタリティを発揮してどんどんのめり込んでいくことに。その姿は、今の韓流ファンの方たちとまったく同じ光景です。だからこそ、ファンと同じ目線に立てる。そんな水田さんに、いろんなお話を伺いました。(以下、アジクロ、M=水田さん)
●香港映画との出会い
最初は普通のお仕事をされていたんですよね?
M「10年くらい前までは、普通にお勤めしてました。」
香港にはまるきっかけは何だったんですか?
M「よく聞かれて思い起こすんですが、ブルース・リーやMr.Boo は、リアルタイムで劇場で観てるんですね(笑)。だけどその時は、香港映画だと思って観てないんです。他の映画もいろいろ観るし、特に意識はしてなかった。70年代後半に、旅行で初めて香港に行ったんです。よく旅行に行くと、空港に着いた時に合う合わないって感じるじゃないですか。で、『合う!』って思った訳です。
ただ、その時もまだ観光レベルで…。そうこうしてるうちに、80年代の終わり頃、レンタルビデオ屋さんで間違って、ハリウッド映画だと思って借りたのがチョウ・ユンファの映画(*1)だったんです(笑)。そしたら、たまたまそのビデオ屋さんに香港映画がものすごく揃ってて。珍しいですよね。もう端から全部借りて観ちゃった。チョウ・ユンファの映画を。」
1つ観たら、面白かったからですね?
M「そうそう。それでかなりはまって、その後で『欲望の翼』(*2)を劇場に観に行って。その頃はいわゆる映画ファンだったので、こんなお洒落な香港映画があるんだってびっくりしました。その時に、飲茶倶楽部(*3)が会員募集をしていて、入会するとツアーがあって、スターに会えたり撮影が観られたりするんですね。それですごく行きたくて、その場で入った訳です。それからすぐ香港に行って…『欲望の翼』を観てから旅行に行くまで、どのくらい間があったか覚えていないけど、その間の坂道を転がり落ちるような、雪だるま式の知識の吸収率の速さは、我ながら…」
よくわかります(笑)。
M「私はB型ですごい凝り性なので、ものすごくのめり込んで終わるとポイってする人なんですけどね。で、ものすごい知識を詰め込んで旅行に行きました。ツアーバスの中でカルトクイズがあって、そんな私だったから一等賞になったんです。我ながら、すごいと思うんですけど(笑)。で、一等賞になったら、何のご褒美があるのかと思ったら『今から時代劇を撮影している現場に行きます。その主演の人に水田さんは花束を渡して下さい』と。今思えば、それはチャウ・シンチーだったんですけど、当時の日本ではチャウ・シンチーの映画は1本も来てなくって…。」
誰も知らなかった?
M「そう。それで凄いブーイングで。しかも、チャウ・シンチーが感じわるくて(*4)、花束を渡したら握手くらいしてくれるかと思ったら、プイッて行っちゃって(笑)。もうサイテーとイメージわるくって…今思えばですよ(笑)。その頃から、じゃあチャウ・シンチーの映画も観てみようと思うようになりました。」
●アンディ・ラウとの出会い
M「飲茶倶楽部に行った時に、お店(*5)でかかっている音楽が気になって『今かかってるCDをください』って言ったら、それがアンディ・ラウ(劉徳華)だったんです。でも、アンディ・ラウが『欲望の翼』に出ていたっていうのは、私の中ではしばらく一致しなかったんです(笑)。それくらいのレベルだったんですね。香港映画の俳優はみんな同じ顔に見えるとか(笑)。私は顔よりも声フェチというか、声と手に弱いんです。それで、アンディ・ラウの声にずぶっと入ってしまって、そこからアンディ・ラウの旅が始まってしまった。
93年の東京ファンタスティック映画祭で『スター伝説』(*6)という、日本の公開タイトルそのまんまのタイトルを冠した『アンディ・ラウ・デイ』があって、当時もお勤めしてましたが、そこに行ってました。ほんとにファンのノリで。今のペ・ヨンジュンのファンと一緒ですよね。それでプレゼントを買って、映画を全部観て、舞台挨拶の時にプレゼントを渡して…そのプレゼントの中に、返信用封筒に自分の住所と名前を書いて、中に白紙のカードを入れて渡したら、アンディが香港に戻ってからサインが送られてきたんです。香港では大スターなのに、どこの馬のホネとも知れない日本のおばさんに、こんなことをしてくれるなんて…って感動して、そこから人生が狂いました(笑)。
今の韓国ファンの方たちと一緒で、それまでは私も日本の誰かを追っかけたりとか、何かのファンクラブに入ったりとか、そういう経験はゼロだったんです。もうほんとに恋をしたような感じでしたね。だから、たまたま私がそうやって好きになったのがアンディ・ラウで、彼ってすごく出ている映画が多いので、それを端から観ていたらここまで来ちゃったってのが本当の所です。そうやって映画を観ているうちに、だんだん他のスターたちの名前と顔が一致してきて、わかってくるとどんどん面白くなってきました。
それと、皆同じ道を辿りますが、アンディ・ラウに今度会った時は広東語で話したいと思って、広東語を習い始めました。今思えば、毎日終電みたいな仕事をしていたのに、週に2回、飲まず食わずで2時間半、会社の近くで習ったんです。残業の時間に抜け出して行って、また会社に帰って仕事をするの。1週間に2時間半を、1年半。お昼休みにはずっと広東語を声に出して読んだりして、会社の名物だったんですよ(笑)。言葉がわかるようになると、映画を観てほんのちょっとの言葉でもわかるとうれしくなっちゃって…今の『アンニョンハセヨ〜』と一緒ですよね。最初の頃ほどではないけれど、それでもかなり人よりは加速度があったと思います。」
|