裸体にこだわる香港の異才 ー SCUD(スカッド/雲翔)
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東京にもオフィスを構えたSCUD(スカッド/雲翔)監督。素顔はとても人なつっこい気さくな方で、満面の笑顔がチャーミング。
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08年にローレンス・ラウ(劉國昌)との共同監督作『無野の城/City Without Baseball』で鮮烈なデビューを飾ったSCUD(スカッド/雲翔)監督。続く『永久居留/Permanent Residence』ではゲイである主人公の報われない一途な愛、『アンフェタミン(安非他命/Amphetamine)』では愛しあっていたのにドラッグで壊れてしまう恋人たちと、ピュアなラブストーリーをアーティスティックに描くと共に、当時、人気グループEO2のメンバーだったオスマン・ハン(洪智傑)やミスター香港コンテストで注目されたバイロン・パン(彭冠期)などのイケメンたちをフルヌードにしたことでも話題になりました。「美しい裸体を記録する」その視線は、例えて言えば、写真家のレスリー・キーに近いかもしれません。
日本では5作目にあたる『ボヤージュ』が初の公開作品。「うつ病」と「死」をテーマにしたオムニバス作品で、2013年のシカゴ国際映画祭でスペシャルトリビュートに選ばれています。本作のアジクロシネマでの紹介記事がご縁となり、6作目『ユートピア』のDVDリリースで来日したSCUD監督に単独インタビューをする機会をいただきました。SCUD監督といえば、IT業界から映画の世界へ転身した興味深いキャリアの持ち主。アジクロでは、そんな監督自身の生い立ちや足跡から迫ってみたいと思います。
生い立ちからIT業界へ入るまで
Q:監督はとても数奇な人生を辿っておられますね。中国で生まれ、国民党だったおじいさんは台湾へ渡ったけれど、ご家族は行くことができずに香港に移住されたそうですね?
監督「祖父は台湾へ移住しましたが、祖母は中国に残り7人の子どもたちを育てました。そのうちの一人が私の父です。祖母は香港へ移住していたので、私の両親はどちらも香港生まれです。私は中国で生まれました。香港へ移住したのは13歳の時。私の一番上の叔父は香港へ移住した後、シンガポールへ行き、詩人として活躍しています。『ボヤージュ』の冒頭では彼の詩を引用しました」
Q:監督もほんとうは芸術が好きだったけれども、働きながら勉強し、ITの会社に就職したそうですね?
監督「ITは私の最初の仕事で、映画を作る前にずっとやっていました」
Q:先にお金を稼いでから、映画を作ろうということだったのでしょうか?
監督「最初に就職できたのがIT業界だったのです。べつに好きだったわけではなく、選択肢はなかった。1979年のことで、当時ITは下火になっていて誰も興味を持っていませんでした。そこで、たまたまソフトウェアの会社に誘われて、就職できたんです」
Q:そのお仕事で独立して成功し、すぱっと辞めたんですね?
監督「22年ほどITの仕事をしましたが、その頃に大好きな祖母が亡くなり、いろいろ考え始めたんですね。とても愛している人が去ってしまった後、人生について、残りの人生をどうやって過ごそうとか考えるようになりました。そこで、仕事を辞め、キャリアも捨てて、オーストラリアへ移住したんです」
映画監督への道
Q:映画を作ろうと思われたきっかけは? 昔からお好きだったんですか?
監督「そう思うようになったのは、オーストラリアへ行ってからですね。それまではずっと働きづめで、考える余裕もなかった。映画業界に友人はいたけど、ただの趣味で、こんな風に監督になる機会があるとは思ってもいませんでした。そのアイデアが浮かんだのは、オーストラリアのビーチにあるお気に入りのベンチで読書をしていた時です。突然気づいたんですね。
その理由の1つは、当時アンハッピーだったことと関係しているかもしれません。身近な人たちのことを映画にするという夢を実現してみたくなったのです。安定した仕事やお金、車、家…と、そういう夢はすでに実現していたので、他人からみれば幸せに見えたかもしれません。だけど、それらは私の夢ではなかった。私の夢は常に音楽や文学、もっと芸術的な詩的なものの中にありました。それが、憂鬱で悲しい生活から逃れ、ほんとうに好きな世界に飛び込む唯一の方法だったのです」
Q:仕事をしている時も映画は観ていたのですか?
監督「子どもの頃から映画はレンタルビデオで観ていました。1991年か1992年に、仕事で某大手銀行へソフトウェアを納品する仕事があり、ソフトができあがった後は、銀行へ出向してそのシステムについて教えていたんです。仕事が終われば、私もオフになる。ちょうど銀行の前に大きなレンタルビデオ屋があったので、毎日夕方になると、3、4本の映画を観ていました。当時はビデオが人気で、ブロックバスターの映画とかたくさん観ていました。2年間で2000本以上は観たかな」
Q:じゃあ、映画は観て勉強したという感じですね。
監督「そうですね。そうしたかったもう1つの理由は、自分のうつ病です。もう何年もうつ病と闘ってきて、自殺願望もあり、友人にも相談していました。そんな時、仕事先のパーティで、ある友人からアドバイスをもらったのです。自分の人生を終えたくなったら、とにかく映画館に入って映画を見ろと。すると、映画館にいる2時間は映画に没頭できたんです。私にとって映画というのは、単なる娯楽ではなく、映画は多くの人の人生を変えたり、価値を持たせたり、命を救うこともできるのだと気づきました」
Q:ヒーリング作用があるということですね?
監督「そうです。とてもあります」
レスリー・チョンが跳んだあの日
Q:香港といえば、レスリー・チョン(張國榮)さんがやはりうつ病で亡くなりましたけれど(2003年4月1日)、当時はいかがでしたか? 失望されましたか?
監督「あの時、車でマンダリン・ホテル(マンダリン・オリエンタル・ホテル)の近くを通っていました。友人をセントラルまで送っていったんです。彼には大事な約束があり、間に合わないかもしれないとナーバスになっていたので、大丈夫だよと。で、彼を下ろして、時計を見せた。それが、まさにその時だったんです。それから、ウォーターフロントを走っていて、レスリーが跳び降りた。運転していて、なぜか後ろのその場所を振り返ったんです。霧が深くて、車の外もよく見えないような日でした。マンダリン・ホテルに興味はないのに、なぜ、そっちを見たのかわかりません。とにかくそっちを振り返ったら、何かが起こった、または起ころうとしていると感じました。そんな気がして家に帰ると、レスリーが命を絶ったと友人が言うので、エイプリルフールのジョークだろうと信じませんでした。もちろん、事実でしたが。
当時、私のニックネームの1つがレスリーと同じ「ゴーゴー(哥哥)」だったんです。レスリーのファンは皆、彼をそう呼んでた。「お兄さん」という意味ですね。自殺するなんて愚かだという人もいたけど、この出来事でわかったのは、うつ病は確実に自分を殺すということ。エイズとかそんなことは信じてません。もちろん、彼は違いましたが。このことで私は、自分の問題にどう立ち向かおうかと、より深刻な見方をするようになりました。
実は、最初の『無野の城』を撮った後で、レスリーのファンクラブ関係の女性から、レスリーのドキュメンタリーフィルムを作ってくれないかと打診されたのですが、自分には荷が重すぎるので、アイデアならいくらでも出すけれども、監督はできないと辞退しました。そういうこともあり、『ボヤージュ』にはレスリーへ私なりのオマージュを捧げたシーンがあります」
思いがけず、興味深いお話を聞くことができました。そういえば、『ボヤージュ』にかぎらず『アンフェタミン』や『愛很燗/Love Actually...Sucks!』でも跳ぶシーンが重要なポイントになっているし、デビュー作『無野の城』ではレスリーを含む多数の亡くなった有名人へのトリビュートが挿入されています。作品のお話が出てきたので、ここからは監督の作品や映画作りについて尋ねてみました。
ハーマン・ヤウ監督は一番の友人
Q:ハーマン・ヤウ(邱禮濤)監督とよく一緒に仕事をしておられますね。
監督「彼には2つの作品(『永久居留』『愛很燗』)で撮影監督をしてもらっています。ハーマンはこの業界で一番の友人です。彼自身、監督として100本くらい作品を撮っていますが、最も信頼できます。例えば(写真集を見せながら)『永久居留』では、二人の青年が海へ泳いで行き、戻ってくるシーンがあります。あれは夜でしたが、雨が降る前で、かなり俯瞰から撮影しました。「はっきり見えないけど、これでいいのかな?」と尋ねると、「君が気に入っているならそれでいいんだ」と。ハーマンはストレートで奥さんや娘もいます。ゲイではありませんが、はっきり見えないセックスシーンでも、これでいいんだと。芸術に関しては男女に関係なく、審美眼を持っていると思います。
例えば、フランク・ラウ(『永久居留』の写真集でスカッド監督とバイロン・パンによるイメージフォトを撮影したフランクリン・ラウ)ですが、彼は香港ではとても有名なカメラマンでマイクロフィルムも撮っています。(写真集を見ながら)これは私なんですが、撮影中はとても乗っていて、接近して何度も撮影していました。ギャラの話は決まっていたんですが、楽しかったから要らないと言ってくれました。彼はカナダに移住したばかりで、奥さんと二人の息子と暮らしています」
Q:影響を受けた監督はいますか? 例えば香港だと、ヨン・ファン(楊凡)監督(『美少年の恋』)やウォン・カーウァイ(王家衛)監督(『ブエノスアイレス』)などがいますが。
監督「香港はいないですね。ヨーロッパや日本の監督の方が私にとっては魅力的です。パゾリーニ監督が私の一番のアイドル。ベルリン国際映画祭で『アンフェタミン』が初めて上映された時、批評家がこの映画に対して「現代のパゾリーニ」と書いてくれたんです。その時は最高の気分でした。日本だと大島渚監督が好きですね」
『ユートピア』について
5月に先行してレンタル版がリリースされた『ユートピア』(7月5日にセル版リリース予定)は『ボヤージュ』に続く第6作目。本作は昨年1月に日本で最初に公開され、香港と台湾では昨年10月に公開されています。
Q:香港と台湾での反応はいかがでしたか?
監督「私の作品が一番人気なのは台湾です。特に台湾の観客は、次の作品(台湾で撮影された『三十儿立』)を楽しみにしてくれていて、いい雰囲気ができあがっています。香港は私の拠点ということになっていますが、観客はそんなに多くありません。どちらかというとDVDでよく観られていますね。プライベートで観られるからでしょう。香港と台湾では違いもあります。今回、台湾ではノーカットでしたが、香港では2つのシーンがカットされました。香港の観客はノーカット版を観るために台湾まで観に行ってました」
Q:それはやはり中国との絡みでしょうか?
監督「そう思いますね。20年前の香港は台湾よりも自由でしたから。それから少しづつ香港は後退していき、台湾はだんだん自由になってきている。一番自由な国はマレーシアですね」(次頁へ続く)
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