さり気ないインド・ファッションが いつも素敵な松岡さん
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●香港映画との出会い
香港映画にはまったきっかけは、何だったのですか?
M「香港映画はけっこう昔から、よく観ていました。横浜の中華街へ行ってビデオを借りて観て、70年代くらいから台湾映画もよく観ていました。『銀色世界(*7)』も70年代から読んでましたね。香港へ行ってインド映画のビデオを買い始めた80年代からも、行くたびに香港映画を観ていたのですが、これという作品に当たらなかったのです。
アラン・タムだったかなあ…よく覚えてはいないのですが、『男たちの挽歌』より前に、お!これは面白い!というのがいくつかあって。そうそう、『サンダーアーム/龍兄虎弟』(86年)なんか好きでしたね。それで87年に、香港映画をターゲットにして行きました。その年に『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』(*8)やチョウ・ユンファの『誰かがあなたを愛してる』(*9)などがあって、これは面白い!と思ったのです。
でもあの頃は、映画よりもポップスの方が好きでしたね。レスリー(チョン)とかアラン・タム、ジャッキー・チョン、ダニー・チャン…とりあえず、全部聴きました。最初はポップスの方が8割くらいを占めていて、映画も面白いじゃないという感じでしたけど、だんだん映画の方が面白くなってきて。」
インド映画とはまた違う観点だったのでしょうか?
M「観点は違うけど、音楽と重なっているところは似ていて、エンターテイメントに徹している、サービス精神がすごく旺盛、というのも似ていました。でも多分、一番決定的になったのは『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』を観た時かな。これは面白い!と思って。たまたま公開してる時に香港へ行って、何の気なしに映画館に入り、凄く暑い日で、映画館に入った途端に真っ暗になって、そこにバ〜ンと『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』の最初が現れ、レスリーがおとぼけをやるタイトルバックが出て来てね。これは面白いなあ…と思って、最後まで釘付けになって観てしまいました。」
インド映画、香港映画…そして、その他の映画はへはどういう経緯で?
M「レスリーがすごく好きだった80年代の終わり頃に、TVBの『勁歌金曲(Jade Solid Gold)』(*10)や音楽番組のビデオを持っている人がいて、どこで手に入るの?と尋ねると、シンガポールの貸しビデオ屋さんで売ってくれると言うんです。それじゃ、シンガポールへ行こうということになりました。シンガポールへ行くと、たしかに中華街に貸しビデオ屋さんがあり、そこに香港のテレビ番組が全部輸出されて来ているんですね。TVBもATVも。それで、ビデオを売ってもらって日本に持って帰っていました。
で、シンガポールへ来たからには、シンガポール映画も観てみたい。でも、シンガポール映画ってやってないなあと思っていたら、ちょうどシンガポール映画祭をやっていたんですね。映画祭へ行くとパンフレットを売っていて、パンフレットの文章でマレーシア映画の顔であるP. ラムリーも知りました。
その後、マレーシアにも遊びに行くようになり、マレーシアの映画評論家の人と知り合いになったので、その方にマレーシア映画についてのレクチャーをお願いしたら、『これが、これまでに作られたマレー語の映画だよ』って資料を持って来てくださったんです。『最初の頃は、シンガポールと一緒だったからシンガポールで作っていたんだよ』と。そのリストを見たら、監督の名前が書いてあって、これってインド人の名前ぽいですね?と尋ねると、『そうだよ。インド人がいっぱい来ていたんだよ』と言われて、エエッ!?と驚きました。
そんな資料はそれまで知らなかったので、これは私が調べなくてはと思いました。それが辞める数年前だったんですね。いつか調べなくてはと思っていたので、辞める決心をした機会に、これを調べてしまおうと思ったのです。その間にも、シンガポールやクアラルンプールに行ったり、映画を観たりしていました。」
その頃にTVBの『勁歌金曲』も買っていたんですね?
M「そう。ほとんど毎年のように買いに行って買ってましたね。90年前後から。」
今は全部VCDになって出ました。
M「出ちゃいましたね。あの頃は、年に1回の『勁歌金曲』のファイナル、それに年に4回ある季選のも買って、『十大金曲』も、他のチャリティのもあれば買って…20〜30本は買ってましたね。一度、持って帰れない時があって、紐と段ボール箱をもらってきれいに梱包して郵便局に持って行こうとしたら、『ずいぶん上手に梱包するんですねえ』と、ビデオ屋のお兄さんを驚かせたこともありました(笑)。こういうの慣れてるからって答えたんですが(笑)。」(読者諸姉の中にも身に覚えのある方がいるのでは?)
●レスリー・チョンとSARS
レスリーがお好きだったんですよね。
M「好きでしたね。特に88〜89年くらいはすごく好きでした。」
再デビューしてからはどうだったんですか?
M「再デビュー後は、裏切られたって感じで…(笑)。あんなに引退で泣かせたくせに、また出て来ちゃって、もう!って感じでした(笑)。一応、CDは買っていましたけどね。」
でも、復活後ですよね。日本でブレイクしたのは。
M「そうですね。日本では『さらばわが愛/覇王別姫』でたくさんの方が好きになり、95年に歌手復帰したので、皆コンサートとかで好きになって…。」
規模は違いますけど、今のペ・ヨンジュン・ファンみたいでしたね。
M「そうそう、そんな感じでしたね。」
すると、2年前はショックでしたよね。
M「あの4月1日の晩は、シンガポールでテレビを見ていました。シンガポールに行ったのは、3月31日で…。SARSの時で、日本では3月中はあまり報道されていなかったんですよ。出発前に、SARSという病気が香港で流行っていると新聞に書いてあって、まあ1週間くらいの内におさまるだろうみたいな感じで行ったら、シンガポールに着くともう、ものものしい雰囲気で…。これはやばいと思いました。その前に、香港で乗り換えたら、マスクをしてる人はいるわ、手袋をしてる人はいるわで…すでに異様な雰囲気でしたね。
それで、4月1日に友だちと会って、『これから5日に香港に行って、映画祭なんだけど…どうしよう?』と話したら『まっすぐ日本に帰りなさい!』と言われて、チケットを換えようかなあ…なんて言って帰ってきたら、その晩のテレビで、ドラマの途中に縦のニューステロップが流れて、簡体字で『張國栄』と出ていて、何だろう?と。また出て来たので読むと、レスリーがビルからジャンプして亡くなったと。それは驚いて、いろんなチャンネルを見たら、香港ではこんなに大騒ぎになってます、みたいなね。最初のテロップが8時か9時頃でしたね。
でも、レスリーのニュースを知った時に、これはもう香港に行かなくては!という感じで、予定通り5日に香港へ行きました。8日がお葬式でした。あの時は無茶苦茶でしたね。今思うと、恐怖の毎日みたいな…香港にいる間、SARSは恐いわ、レスリーのことはあるわで、夜はよく眠れなくて。SARSの恐怖は、あの時香港にいた人じゃないとわからないという感じでしたね。もう、どうやって逃げればいいかがわからない。マスクをしていても、どこでどううつるかわからないでしょう? 私たち旅行者はいいけど、香港の人は皆毎日仕事しなくちゃいけない訳だし…。」
それから、香港受難の1年となった2003年のことを思い出し、しんみりとなってしまいました。そこで気分を変えて、再びインド映画のお話、インド映画ブームのお話へと続きます。
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