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Asicro People

更新日:2005.6.23

●Asicro People ではアジアと日本をつなぐ様々な活動をしている方たちをご紹介していきます。

松岡環

松岡環さん

file no.3
松岡環さん
(アジア映画研究家/字幕翻訳家)

 日本でインド映画といえば、まず一番最初に名前があがるのが松岡環さんです。難解な芸術作品ではなく、大衆文化としてのインド映画を紹介しながら、その興味は香港映画や東南アジア映画にも広がり、今では韓国映画まで…と幅広いアジアの映画の紹介や執筆活動を続けておられる松岡さん。その興味の源流から今に至るまで、そしてこれからのことなど、いろいろなお話を伺いました。
(以下、アジクロ=松岡さん)

●インドとの出会い

 インドと関わるようになったきっかけは、何だったのですか?

 「大阪外大のインド・パキスタン語科でヒンディー語を学んだのです。卒業後、東京外大の大学院に入り、途中で大学を辞めて東京外大の研究所に就職しました。それで大学の4年間と大学院の1年半の5年半の間に、ヒンディー語をみっちり仕込まれました。」

 その頃から、インドに興味があったのですか?

 「いえいえ。最初は理科系だったんだけど、高校の先生から、お前の偏差値じゃ理科系はだめだと言われて、英語と国語がわりとできるから大阪外大に行けと勧められたのです。大阪外大のモンゴル語科とインド・パキスタン語科なら入れるから、どっちにする?と言われて、じゃあ、インド・パキスタンなら国が2つあるからそっちにしますって…そんな感じだったんです(笑)。」

 では、わりと成りゆきだったんですね?

 「ええ。インドのことは何にも知らなくて。まだ60年代の終わり頃だったから、何にも情報がない頃で、旅行に行く人も少ないし、日本の団体旅行ブームもまだでした。」

 インドへは、就職してから行かれたのですか?

 「就職してお金もできたので、1975年に行きました。」

 それから、香港にも行くようになったんですよね?

 「実は最初のインドの旅から帰る途中で、香港に降ろされたんです。それが一番初めの香港でした。途中で飛行機の便が変更になり、香港経由で帰ってくださいと飛行機会社から言われたんです。当時は、香港というと恐い所というイメージだったので、どうしようとビビリました(笑)。空港にはリムジンが迎えに来ていて、ミラマーホテルに泊められたんですけど、ここから出ちゃアブない…と、ほんとに一歩も外へ出なかったんです。ミラマーのレストランで夕食を食べて、下のショッピング・センターで買い物をしただけでした。」

 その頃は特に、香港を意識していなかったのですね?

 「ぜんぜんでしたね。後で何度も来るようになるとは思わなくて、嫌々ながら降ろされた土地、という感じでした。インドの方は、最初に行って凄く好きになり、毎年リピートするようになりましたが。」

 それから、インド映画を紹介されるようになったんですね?

 「インド映画は、行く前に1〜2本観ていました。日本で観た、歌と踊りの入っているインド映画がすごく面白かったので、初めてインドに行く時、インド映画を観に行こう!と思ったのです。インド映画を観ると、自分が今まで勉強してきたヒンディー語を、映画の中で皆が一斉にしゃべっている訳じゃないですか。濃い密度で聞くことになり、前に勉強したことがどんどん使えるようになって、それが面白くて…。街中で使うと通じるし、おお〜!という感じでした(笑)。

 それで、映画自体も面白かったんですね。ちょうど私が最初に観に行った75年というのは、映画の面白い時期だったのです。大作も、それから小さいけど優秀な作品もあって…こんなに面白いのに、当時の日本では、サタジット・レイ(*1)の作品しか上映されていなかったので、これは日本で紹介しなくちゃだめだ!と思いました。」

●インドの娯楽映画を日本で紹介する

 インドでご覧になったのは、一般の方たちが観る娯楽作品なんですね?

 「そう。一般の人が見る映画館では、そういうのしか上映してないんですよ。芸術映画なんてどこにあるの?という感じでした。」

 昔の日本ではインド映画というと、アート系の作品がほとんどでしたね。

 「最初はね。『ムトゥ 踊るマハラジャ』が来る前は、ほんとにアート系の、サタジット・レイの名前しか皆知らないみたいな。で、帰ってから、ちょこちょこと文を書き始めて、毎年1度インドに行っては、また文章を書いてました。最初は同人誌などに書いていましたが、やがてそれを見てくれた人に、雑誌に書きませんかと言われて…。」

 当時、インド映画を紹介しているのは、松岡さんくらいでしたよね?

 「今もかな(笑)。当時は、インド自体があまり知られていない頃で、ビートルズによってインドというイメージが日本人に入って来た頃でしたね。後は、インドはお釈迦様の国だからというイメージが強くて、インドにビルなんてあるんですか?映画があるんですか?という感じだったんです。

 インド関係の研究者の中でも、歴史とか経済とか、文学くらいまでは皆さん研究なさるんだけど、映画や大衆文化までは誰も研究していなかったのです。自分一人しかいないから、使命感に燃えまくってという感じでした。

 その頃、インド映画のビデオが出回るようになって、どこで買えるんですか?とインド人に聞くと、香港やシンガポールで買えるって言うんです。それはインドで作ってたんだけど、海外向けだけ、外貨獲得の為に出すだけで、インド国内では映画産業保護のために、一切売らないという方針だったんですね。」

 それは面白いですね。

 「ボンベイの特別な産業地区、輸出産業地区で製造されていて、インド国内では出回っていませんでした。」

 じゃあ、映画は映画館で観るものと…。

 「そう。映画館で観る。まあ、ビデオ機器もそんなに行き渡ってなかったし、テレビの普及率も低かったんですね。だからソフトも売れない、というのもあったでしょうけど。それで、インドでは買えないので香港に行って、香港で買ったのが81年だったかな? まず5本買って来て、自宅で上映会を始めたんです。小さなテレビを使って、観客も5人に限って。

 それから、ドキュメンタリー映画を作っている会社が、ビルの一室を映写室にするので、30人くらい入れるから、そこでやったらどうですか?と言われて、そこでやり始めました。ぴあに告知を出したら、結構お客さんが来てくれて、そういう上映が『プレーム・シネマ(*2)』として7年続きました。字幕はもちろんなしで、パンフを見てもらいながらのビデオ鑑賞ですね。」


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●プロフィール
兵庫県出身。大阪外国語大学インド・パキスタン語科卒。東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所で文部事務官を20年務める。在職中にインド文化交流センターを設立し、「インド通信」を発行。83年に初のインド映画祭を開催する。退職後は香港やアジア各地の映画にも興味を広げ、95年にシネマアジアを発足。現在は大学の非常勤講師やライター、字幕翻訳家として幅広く活躍中。
●主な著作

映画で知るアジアのこころ
(91年/共著/亜細亜大学アジア研究所)1050円/税込

インドがやがや通信
(94年/共著/トラベルジャーナル)1529円/税込

アジア・映画の都

アジア・映画の都
/
香港〜インド・ムービーロード
(97年/著書/めこん)
2940円(税込)


インド映画娯楽玉手箱

インド映画娯楽玉手箱

(2000年/共書/キネマ旬報社)
2000円(税込)


*1:サタジット・レイ
1921-92年。インド映画の巨匠監督。デビュー作『大地のうた』(55)でカンヌ映画祭人間ドキュメント賞を受賞。以後、『遠い遠雷』(73)など名作を手がけた。日本での公開作も多く、『大地のうた』3部作はビデオ化もされている。本作の音楽を担当したラヴィ・シャンカルは、ビートルズなどに影響を与えた。
*2:プレーム・シネマ
81年に発足した松岡さんによるインド映画ビデオ上映会の名称。以後、87年まで続いた。