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Asicro People

更新日:2005.6.23

●インド映画祭の開催へ

 やっぱり、インド映画に興味のある方たちがいたんですね?

 「82年に、国際交流基金が『国際交流基金映画祭・南アジアの名作を求めて』というのを開催しました。インド、スリランカ、フィリピン、タイ、インドネシアの11本の作品を上映したんですが、その時にアジア映画に対する関心の高まりが起こって、凄い人気を呼んだのです。それで、83年に私たちがインド映画祭をやりました。80年代に入って、少しずつアジアに対する関心が高まっていたんですね。インド映画って知らないけどなんだか面白そう、みたいなのが82年くらいからあって、ビデオ上映会を外で始めた頃から、少しずつ観客が増えてきましたね。」

 インド映画祭は、どのような規模だったのですか?

 「16ミリフィルムを買って字幕を付けて、ホールでの上映でした。この時は、思ってたよりはお客さんが少なかったけど、後でプリントが残り、期間中は貸し出しができて、3本の作品が全国を回ったんですよ。」

 その3本とは、どういう作品ですか?

 「アラヴィンダン監督の『サーカス』と、シャーム・ベネガル監督の『芽ばえ』、それから娯楽映画でビーム・セーンという監督の『ままごとの家』というのをやりました。」

 それらの作品は、ビデオになっているのですか?

 「契約期間が終わって後は、川喜多財団にプリントを寄付しました。当時は、ビデオ化するという話まではいきませんでしたね。『芽ばえ』は、後でNHKで放映されましたけど。それで、85年に2回目をやりました。その時は予算がなくて、池袋の西武百貨店がホールを貸してくれるというので、大使館を通じてプリントを借りて、英語字幕で上映しました。」

 その頃になると、だんだん人が増えていたんですね?

 「『シャンカラーバラナム』という、歌と踊りをテーマにした南インド映画をやった時は、もうホールが満杯で、扉が閉まらないくらいでした。」

 一度観ると、あの魅力に取りつかれるんでしょうね。その頃から映画は長かったんですか?

 「昔から変わらず、大体2時間40分から50分くらいです。それから、88年に『インド祭』という政府の催しがあり、ぴあが主催して、インド政府と共同で『大インド映画祭』をやりました。その時は25本、戦前の作品から80年代の作品まで、いろんな言語の映画を上映しました。次郎丸章さん(*3)も、この25本を観たがために、インド映画にすっかりはまってくださったんです(笑)。」

●インド映画と香港、中国との関係

 「その後、89年にシンガポールに行った時、昔作っていたマレー語の映画に、インド人の監督がいっぱいたことがわかり、これはなんか面白いことをやっていたんじゃないか?と思いました。それで『アジアにおける映画交流の歴史』を研究するということで、トヨタ財団に研究費を申請していました。92年に研究所勤務が20年になり、年金受給資格ができたのと、トヨタ財団から1年間の研究費がもらえることになったので、これ幸いと退職して、退職金で香港の中文大学に語学研修留学しました。

 なんで香港かというと、シンガポールでマレー語の映画を作って、インド人監督を呼んでいたのが、ショウ・ブラザース(*4)とキャセイ(*5)だったんです。彼らの本拠地はシンガポールと香港なので、香港でも調査をするという名目で、中文大学に留学しました。それに、80年代の終わり頃から香港映画が面白くなっていて、当時の私は香港映画にも傾いていたんですね。」

 そういえば、香港にもインド人が住んでいますが、インド映画は香港でも公開されていたのですか?

 「いえ。公開はほとんどないです。香港のインド人人口は比較的少ないので、一般公開までは無理ですね。、公開がずっと続いているのはマレー半島ですね。あの辺はタミル系の人が多いのでタミル語の映画と、それから、ヒンディー語映画はインド全国で人気があるから、その両方がマレーシアとシンガポールで公開されているんです。他にインドネシア、タイもインド映画のマーケットだし、ビデオが作られるようになってからは、もっといろんな所に入っています。

 中国でも、50年代からインド映画が上映されています。当時はインドも社会主義を標榜していたので、中国と仲良くなり、リアリズム系のインド映画が中国に出ていったのです。ジャ・ジャンクー監督の『プラットホーム』(2000/香・日・仏)は70年代から話が始まりますが、最初の方で、主人公の若者たちが、当時流行りのジーンズをはいて観に行く映画がインド映画なんですよ。」

 それくらい、普通に観られていたんですね?

 「先日も教えている大学で、中国人の留学生が『先生、私インド映画は中国で死ぬほど観ました。中国語に吹き替えられてるし、タイトルも中国語だから元の映画は何という題か知らないけれど、とにかく小さい時からテレビでもよく観ました』と話してました(笑)。」

 中国語に吹き替えられてる(!)って面白いですね。

 「中国は吹き替えなんですよ。歌の部分だけヒンディー語そのままで。」

 でも、映画を見ると生活文化がよくわかるから、日本人よりは中国人の方が馴染が深いかもしれませんね。

 「そうですね。中国といっても、西の方はインドと近いから、そんなに違和感はなかったでしょうし。」

 シルクロードでつながっていますもんね。

●シネマ・アジアとインド

 吉祥寺で定期上映されていたシネマ・アジア(*6)について教えてください。

 「95年から2000年までやっていました。インド映画と香港映画と、東南アジア映画もやりましたね。会員がのべで500〜600人くらいになったと思います。1回の上映会が定員20名で、ぎりぎりまで入れて25人くらいという自宅のスペースでやってました。」

 それだと会員の方全員は入れませんね。

 「インド映画の時はよく断わっていましたね。1ヶ月前から予約を受け付けるんですが、インド映画は当時のブームと重なったこともあり、あっという間に席がなくなりました。」

 日本にはインドに詳しい方は少ないのでしょうか?

 「研究者の数は凄く多いのですが、大衆文化まで手を広げる人は、やっと最近になって、ここ10年くらいで出て来た感じです。」

 最近の韓国ブームでも思うのですが、大衆文化を見ると、その国の生活や心情などが、一番よくわかりますよね? そこから入っていく方が、馴染みやすいと思うんですが。

 「そうですね。韓国もそうですが、インドの大衆文化にはすべてのものが入っているから、歴史も知らなくてはいけないし、古典文学も知らなくてはいけない。音楽も舞踊も、基本理論を知らなくてはいけない。どこの国もそうなのですが、インドは特にそういうことを知っていないと語れないようなところがあって、結構大変です。インド映画を知るために、私もインド古典音楽を勉強したり、インド舞踊を何年か習ったりしましたよ。やってみなくてはわからないので。」

 それはそれで、楽しそうですね。

 それからしばらくは、現代インド社会についてのお話を伺いました。今やIT大国となったインドでは、IT成り金が増えているとか。またインドのお金持ちは、ケタはずれに凄いようです。富裕層が増えてインドのお金持ちが人口の約1割とすると、なんと1億人がお金持ちな訳で、数にすれば日本人全部がお金持ちということ! もの凄い消費社会な訳で、これからは中国とインド、というのも頷けるとおっしゃっていました。ただ、中国もそうですが、お金持ちは都市に集中しており、貧富の差も激しくなっているようです。


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●back numbers
●字幕のお仕事
H:ヒンディー語
T:タミル語
B:ベンガル語
中:中国語
1994
・女盗賊プーラン(H)
・独身女性(中)
・天国からの返事(中)
・離婚(中)
・画魂(中)
1996
・インディラ(T)
1997
・ラジュー出世する(H)
・アマル・アクバル・
 アントニー(H)
・ムトゥ 踊るマハラジャ(T)
1998
・カランとアルジュン(H)
・シャー・ルク・カーンの
 DDLJラブゲット大作戦(H)
1999
・アシュラ(H)
・イエス・ボス(H)
2000
・タイガー/炎の三兄弟(H)
・賭け(H)
・パロミタ(B)
2002
・恋人(中)
・時に喜び、時に悲しみ(H)
アルターフ(H)
ラガーン(H)
2003
・トゲ(H)
2004
・何かが起きてる(H)
明日が来なくても(H)
*3:次郎丸章さん
松岡さんと並ぶインド映画研究者。松岡さんの影響を受けて、名古屋でも上映会「シネマ・サプナー」を開催。HP「アッチャー・ページ」にも各種コラムを掲載中。
*4:ショウ・ブラザース
戦前、上海からマレー半島に渡り、その後香港にも進出した映画人ランラン・ショウが香港で設立した映画会社。現在、かつての名作が「黄金のシネマテーク・シリーズ」としてDVDで順次発売されている。
*5:キャセイ(国秦)
60年代にショウ・ブラザースと並んで競い合っていた香港の大手映画会社。こちらも、会社のそもそもの本拠地はマレー半島のシンガポール。
*6:シネマ・アジア
95年から2000年まで吉祥寺で開催されていた、松岡さんによるアジア映画ビデオ上映会の名称。