●ベネチア映画祭への出品は最悪バージョン
監督「ただ残念ながら、この映画が最初に海外で公開された時は失敗でした。ベネチア映画祭のコンペ部門に入ったのですが、実は時間がなくて、当時はまだ4時間半の編集も終っていませんでした。ところが、映画祭から2時間半版に編集して出してくれと言ってきたのです。
弱い所を付かれた形で、もうどうしようかと…それで、一応編集しました。4時間半のバージョンをどう見直して2時間半にするか…どころではなくて、考える時間もなく、とにかくカット、カットで、2時間半に編集しました。ベネチアで上映されたのは、そのバージョンです。従って、初めて国際映画祭で皆さんにお見せしたのは、完全に失敗作でした。もう、散々こきおろされました。
そのせいで、後から映画を国際配給する時は、大変でした。酷い映画だと思われているので、何度も試写会をやり、これはそういう映画ではなく、いい映画なんだと説明して、やっと理解してもらいました」
Q:全体的にカットしていったのですか?
監督「よく覚えていません。ここは芝居が長いけど、アクションがいいから、じゃあアクションを残そうと。芝居をカットするので、ただひたすら闘いばかりになってしまい、何のために闘うのかという説明がわからなくなってしまったのです。文化も消え、品行も消え、美学も消えてしまった。ひたすら闘う映画になってしまった。それで、皆飽きてしまい、途中で耐えられない人も出ました。僕自身、あの現場からは逃げたかった。あれは、ほんとうに申し訳ないバージョンでした。火を付けて燃やしてしまいたいくらいです(笑)」
●日本との関係にこだわる理由
Q:『海角七号』『セデック・バレ』や次回作の『KANO』と、題材としては日本との関わりが多いと思うのですが、何か日本への思い入れがあるのでしょうか?
監督「ほとんどが偶然です。僕が一番撮りたかった映画は『セデック・バレ』。そのために、いろんなフィールドワークをやり、いろんな資料を読みあさりました。当然、その時代の資料を読まなければならないし、その1つ前の時代の資料、そして後の資料も読まなければなりません。そのうちに、いろんな別のいい意味でのテーマをたくさん発見するのです。
たとえば、八田さんの話はすごくいいけれど、彼の取組んでいたダムの話は、プロジェクトとしてはとても規模が大きいので、映画化するにはちょっと大変。同時に、野球チームの話を発見し、これなら野球チームを描く時に八田さんの話を背景に取り入れることができると。そうこうして、副産品というか、このようなお話ができあがるのです。だから、偶然なのです」
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前回はブルーのTシャツで取材に応じてくれた監督。今回もブルーのジャケットでした。
『海角七号』は『セデック・バレ』を製作するために生まれ、次回作『KANO』も『セデック・バレ』のリサーチから派生してできた物語。その先にはどんな作品が待っているのか、次回の監督作も気になります。
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●『海角七号』と『セデック・バレ』は同じ
監督「『海角七号』はある意味、特別な作品です。『セデック・バレ』をやろうとしていた時、この企画をいろんなところに持っていきましたが、皆、興味を示さない。反論されるので、怒りが爆発しました。僕はこの作品を「怒り爆発の作品」と呼んでいるんです。なぜかというと、台湾では予算が2000万台湾ドルを超えると、お金が集らない、つまり儲からない映画とみなされます。
しかも、原住民がテーマの映画には誰も興味がない。役者は素人だし、話しているのはセデック語だし、国際的にもマーケットがおそらくない。もし、チョウ・ユンファとか大スターが出ていればひょっとしたら売れるかもしれないけど、これは素人だから売れない。だから、誰も乗ってくれなかったけれど、とにかくやりたかった。
そこで、『海角七号』と『セデック・バレ』の内容を思い出してください。実はそっくりなんです。『海角七号』も文化の衝突を描いています。でも、パッケージはコメディです。コメディにすることによって、エンディングもとても美しくきれいに見せていますが、これも、ほんとうは怒りの作品の1つと思っています。つまり、映画を撮る時は、テーマがどうこうというよりは、物語がいかに素晴らしく、映画として見せることができるか。それが、我々プロの仕事だと思うのです。
『海角七号』も、撮っている内に製作費が5000万を超えてしまいました。この作品の中では、結ばれなかった愛、その無念さをどうしたら表現できるかがポイントでした。そこで、ちょうど日本の統治時代が終るという設定にすれば、この愛は中断せざるを得なくなる。これがもっと前の時代だと、そうはできないんですね。だから、あえてこの時代を設定したわけではなく、物語の展開上で必要だったのです。だから、たまたま台湾と日本の関係という表現になった。そういう手法を使ったのです」
●監督と映画の出会いと影響
Q:これまでに影響を受けた作品や監督、大好きな映画はありますか?
監督「実は真面目に映画を観始めたのは、兵役が終った後でした。家が映画館の隣りでした。田舎の映画館です。小学生の時、映画館がどんどん閉鎖していきました。実家の隣がお寺で、お寺の隣が映画館でしたが、映画館が閉鎖してからは、お寺の広場で野外上映をしていました。
小さい時はわりと身体が弱かったので、病気にかかったときは、母親がよく隣の町の医者に連れて行きました。隣の町の映画館はまだやっていたので、病院の後、ついでに映画を観ていました。映画を観ることが生活の一部でしたね。小学生から中学生、兵役までの間、観たい映画もどちらかというと、野外でやる映画だから大衆向けで、内容的にもそんなに深いものではなかった。しかも、ほとんどが台湾映画でした。
だから、映画を観たから、映画に関する教養や手法が身に付いたというわけではありません。むしろ、映画を観ていた時に習慣になったのは、庶民が映画を観る時はどういう反応をするのか、どういう表情をするのかを、しっかり観察するようになったこと。後になって、自分の作品でこういった庶民たちをキャラクターとして描いているのは、多分、当時から習慣として養っていたからでしょうね」
ここで、約1時間に及ぶインタビューは終了。1を尋ねると10答えてくれるという感じで、予想以上にいろんなお話が聞けました。3月末には次回作『KANO』の撮影も終了し、現在は後期作業が進んでいるところ。こちらは、2014年の春節(旧正月)に台湾公開予定。日本でも公開が待たれるところです。こちらの宣伝作戦もすでに始まっています。真直ぐで、純粋でありながら、したたかでもあるウェイ・ダーション監督。プロデューサーとしての手腕も発揮して、これからもびっくりするような作品を届けてくれることでしょう。
(取材日:2013年3月5日 渋谷ユーロスペースにて4媒体合同取材)
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