彼のような特別な人に出会えたことを、とても感謝している
−ツァイ・ミンリャン(蔡明亮)with リー・カンション(李康生)
最新作『郊遊〜ピクニック〜』で来日したツァイ・ミンリャン監督(左)とリー・カンション
ツァイ・ミンリャン(蔡明亮)監督の最新作『郊遊〜ピクニック〜』が、9月6日より日本公開となりました。92年の長編デビュー作『青春神話』から、日本でも新たな台湾映画の旗手としてずっと注目され続けてきたツァイ・ミンリャン監督。同時に、主演を演じてきたシャオカン(小康)こと俳優リー・カンション(李康生)も監督と共に来日する機会が多く、私たちも映画と共にシャオカンの成長を見守って来た感があります。
昨年の東京フィルメックスでは監督だけの来日でしたが、今回は久々にふたり揃っての来日。まずは、4媒体による合同取材からご紹介します。本作はツァイ監督の集大成とも言える作品でもあり、20年以上に渡り共に映画を創り続けて来たふたりの歴史が感じられるインタビューとなりました。
Q:監督とリー・カンションさんとはもう20年のコンビとなりますが、初めて会った時から、自分のイメージを具現化できる俳優と確信したのですか?
監督「最初に出会った時は、テレビ映画(「小孩」)の主人公を探していました。高校生の役です。見た目はそんなにワルには見えないけど実はとってもワルだったという役で、ほぼ決まっていたのですが、今いち普通過ぎた。そんな時にたまたま、ゲームセンターの入口でバイクに跨がってる彼を見たんです。少し離れた所からでしたが、彼のすごく静かな佇まいに引き込まれてしまい、この役は彼しかいないと思いました。
それで、初めて一緒に作品を撮ることになったけれど、3日後には後悔しました。歩き方も話し方もゆっくりで、ロボットみたいだったのです。それでNGばかり出していました。ある時『目をパチパチと瞬きできない?』と言ってみると『僕はいつもこんな感じなんです』と彼は答えました。家に帰ってから、それについてじっくりと考え、ああ、これは彼の個性なんだ、いつもそんな感じの役者がいてもいいんじゃないか、と思い始めたのです。私自身は大学で演劇も勉強し、演技についてもしっかり勉強していましたが、役者というのは個性が大事なんだと、彼の一言で考え直させられたのです。
(c)2013 Homegreen Films & JBA Production
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それから、彼とは20年以上も合作を続けてきて、3年前には面白い舞台劇もやりました。それは10メートルくらいの距離を移動していく間に、いろいろな役柄にチェンジしていくというひとり芝居です。そのために、彼はこの距離を7分くらいかけてゆっくり歩いていきました。ゆっくりと身体が移動するわけです。その歩き方の素晴らしいこと。とても感動しました。その舞台から、彼が歩くシリーズ『Walker』ができたのです。
そして、『郊遊〜ピクニック〜』を撮影しました。ここに至って、彼は役者として、とても成長した、自信に満ちた演技を見せてくれました。ただの役者ではなく、演じる芸術家になったのです。このプロセスを僕たちは一緒に歩いてきました。自分で専門的な演技を勉強したわけではないけれど、彼は年齢を経て、とても高い境地に達することができたのです。こういうことは滅多にありません。彼のような特別な人に出会えたことを、とても感謝しています」
Q:このように20年もの長い間、監督との縁が続いてきたわけですが、その理由は何だと思いますか?
リー「ツァイ監督とは10数年、一緒に歩いてきましたが、ひたすら自由な創作に心を打たれてきました。役者としての自分の個性を大事にしてくれる、そういう監督と出会えてとてもよかったと思っています。監督はほんとうに芸術というものを、ここまで強く求め、実現しようとしてきた。そういう監督と一緒に歩いてきたということは…」
監督「野心がなかったからね。二人とも野心がなかったからでしょう」
リー「僕たちは映画の中で漂流している人物と同じだったと思います。映画界の中で、という意味ですが、いつも多くの観客には恵まれない。そういう中で映画を撮り続けてきた。映画界ではちょっと異質だったかもしれません。僕たちの映画を支持してくれるファンは少ないけど、とても質の高い方たちばかりなんです。文芸青年というか、インテリ青年の方たちがずっと僕たちを応援して励ましてくれることが、僕たちの20年を支える力になってくれたのです」
Q:監督の作品では、人間が人間であることの哀しさとおかしさが、常に同時に人物に託されているところに、監督の描く人物の魅力があると思うのですが、いかがでしょうか?
(c)2013 Homegreen Films & JBA Production
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監督「人間というのは、何かを求めようとする時、どこに本質があるのかわかりません。人生の意義というものを最初は知らないわけです。それを考えようとしないから。そういう人間が、何かを考え始めるのは、すべてを失くした時です。その時に至ってやっと、何に価値があり、何に価値がないか、いろんなものについて思考を始めます。すべてを失くして、自分がまるで役に立たない人間になったと思った時、たとえばこの映画では、子どもたちに幸せをあげられない、前途も見えない、学校へも行かせていない、そういった何もしてやれない時に至って、やっと自分は何者なのか、人間の本質とは何なのかを考えるわけです。リー・カンションは自分の人生経験をかけて、そういう時のことを考えて演じました。
人間立て看板のことを考える時、自由とは何かについて考えたくなります。日本でもよく見かけますが、たとえば街でホームレスを見る時、自由とは何か?と考える。もしかしたら、彼らの方がもっと自由かもしれないと。私は映画の中のある人物を考える時、社会の隅っこにいる人をとらえて、その人の目から見た社会はどうなのかということを考えるのです」
Q:リーさんは、そういう監督の人間感をどう受けとめて、演技の中に落とし込んでいったのですか?
リー「通常、監督の作品に出る時は、監督と話す時間がたくさんあります。というのも、監督は脚本を書き始めると、誰かに話し相手になってもらいたいんです。こうしたらどうか?とか、こういう風に書いてるんだけど、どう思うか?とか。たえず監督と話し続けていて、その期間は1年も2年もある。ある日、脚本をぱっと渡されて、人物について考えていこうというのじゃなくて、たえずその人物と接しているのです。
監督が書く脚本にはごく簡単なプロットしか書いてないので、その中で、僕が人物の中に入っていきます。たとえば今回のような人物を演じる時、特別な準備はしません。街にいるホームレスを見に行くことはあったけれど、いつも何かを演じる時に、特別な役作りをすることはありません。ただ、その職業について、技術的なことを勉強に行く程度です」(次頁へ続く)
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