60年代の日本映画とアジア
ゴクミこと後藤久美子が、日本のマンガを原作とする『シティ・ハンター』(1993)で、ジャッキー・チェンと共演したのが話題になったのは、ずいぶん昔のことのような気がするが、常盤貴子や藤原紀香が『星月童話』、『ファイターズ・ブルース』、『SPY-N』で、それぞれレスリー・チャン、アンディ・ラウ、アーロン・クォックの相手役を務めたのは、まだ香港映画ファンの記憶の中には鮮明に残っているだろう。
日本の人気女優たちは、低迷しかかっていた香港映画の活性化や市場開拓の役割を期待されて起用されたのだが、実は1960年代、新メディアであるテレビの登場で、大衆娯楽の王者としての地位に翳りが見えだした日本映画界にも、他国からスター女優を迎えて、新機軸を打ち出そうというような流れがあった。いつにも増して暑さが堪えた今年の夏、これまで録りためたビデオの中から、その代表的ないくつかの作品を見直してみた。
東宝が香港の映画会社キャセイと提携して作った『香港の夜』(1961)、『香港の星』(1962)、『ホノルル−東京−香港』(1963)の三部作は、2002年に国際交流基金アジアセンターで特集上映されたので、ごらんになった方も多いかもしれない。3作とも当時の東宝の看板スターの一人であった宝田明とスター女優、尤敏(ユウミン)共演で、香港で本格的なロケをおこない、日本国内でもヒットした作品である。
シリーズ4作目も企画されていたそうだが、尤敏が結婚して引退してしまったために、今度は台湾から張美瑤を迎えて、同様路線の作品として『香港の白い薔薇』(1965/山崎努共演)、『バンコックの夜』(1966/加山雄三共演)等が製作された。
同じ時期の日活では、台湾を舞台にした二つの作品がある。人気絶頂の石原裕次郎主演の『金門島にかける橋』(1962)は日本よりも台湾で評判をとり、当時のアイドル歌手だった西郷輝彦主演の『星のフラメンコ』(1966)は、台北・高尾でのロケを敢行し、台湾の女優の汪玲をヒロインに起用している。
東映では、前にもこのコラムで取り上げたように、石井輝男が『東京ギャング対香港ギャング』、『ならず者』(いずれも1964)で、香港の街頭でのゲリラ的なロケを行い、アクション映画にドキュメンタリー風の映像が加味されて斬新な印象を与えたが、メイン・キャストはほとんど日本人俳優が演じていた。しかしその後、石井監督が松竹で撮った『神火101 殺しの用心棒』(1966)は、香港の劇画を原作とし、主演の竹脇無我にからむ重要な役で、香港女優の林翠が登場する。
ほぼ40年も前に作られたこれらの映画の多くは、いわゆる「日本映画の名作」として後世に語られてきたような作品ではないし、今では、ほとんど忘れ去られたものもある。
「星のフラメンコ」というのは、私の子供時代に大ヒットした曲で、今でもちゃんとワンコーラス歌えるくらい鮮明に覚えているのだが、それにあやかって同名の歌謡映画が作られていたなんてことは、まったく知らなかった。それにフラメンコというのに、台湾が舞台?と、実はいくらか色眼鏡で見始めたことを告白しておこう。ところが、この映画には良い意味でまったく予想を裏切られてしまったのだ。
物語は、西郷輝彦演じる青年が、妹の結婚を期に、長い間消息がわからなかった台湾人の母を探しに台北を訪れるというのが骨子である。青年は当地で偶然知り合った姉妹の協力で、終戦直後まで台北の小学校で音楽教師をしていた母の行方を懸命に捜した末に、母が戦後なぜ日本人の夫と二人の子供とともに日本に行けず、台湾に残ることを選択したのかという悲しい事情が明らかになる。しかし日本と台湾のはざまで生きた一人の女性の心情は、「赤とんぼ」などの唱歌によって、ひそやかに、教え子である台湾の子供たちに伝えられていた…。
現存しない旧台北駅の駅舎や、今ではすっかりリゾート地化してしまった台北近郊の淡水の町など、60年代の風景がフィルムの中に収められているのも貴重である。互いに好感を抱きあう若い二人が語りあうのは「228和平公園」だが、当時はその名称ではなかった。侯孝賢(ホウ・シャオシェン)が「2・28事件」を描いた『悲情城市』(1989)を発表するのは、それから20年以上もあとのことである。このシナリオを書いたのが、後に『北の国から』で知られる倉本聡であることは、映画のクレジットを見て初めてわかった。
日本の60年代は、高度経済成長を背景に、海外観光旅行がようやく自由化された時代。1965年に日本航空の「ジャルパック」が発売されて、海外旅行の大衆化が始まったとされる。まだ1ドル=360円の固定相場制で、海外に持ち出せる外貨は制限されていたが、一般庶民にとって海外旅行は、少し無理をすれば手の届かぬ夢でもなくなったのである。
テレビとの競合によって、映画観客数が減少し始めたこの時期、映画会社は大衆の海外旅行への欲望を見越して、直接海外でロケし、エキゾティシズムを売り物にした観光映画で、観客の心を捉えようとした。美しい映像に対して、中身は通り一遍のメロドラマであるという当時の批評も少なくないが、果たしてそのように、ひと括りにしてしまっていいものだろうか?
時代の変遷を経て、今、改めて東宝の「香港三部作」や日活の『星のフラメンコ』を見てみると、ヒットを狙った商業映画といえども、戦争の傷跡がまだまだ癒えていなかった60年代の日本を生きた人々の、決して単純な形ではないアジアへの思いを読み取ることができるように思うのだ。
(2004年9月14日)
text by イェン●プロフィール
映画史研究を専門とする。香港・台湾電影と中華ポップスを愛好。目下、アメリカで出版された香港映画研究書の翻訳に悪戦苦闘中。
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