『月光の下、我思う』
−台湾文学初心者の覚え書き
今回の東京国際映画祭で、ラインナップが発表になったときから最も観たいと思っていたのは、台湾映画『月光の下、我思う』(林正盛監督)だった。以前、このコラムにも書いたように、今夏の台湾旅行で観られるはずだったのに、タイミングをはずして観損ねてしまった心残りがずっとあったからだ。そして実際に観ての感想も、まことに期待にたがわぬ作品だったと思う。
夫と離婚し、長い間、娘とふたりだけで、ひっそりと暮らしてきた女性の情念が、娘あての恋文を読んだことをきっかけとして、激しく燃え上がるというシンプルな筋立てには、台湾の歴史が濃厚に影を落としている。
1950年代の台東。楊貴媚(ヤン・クイメイ)演じる母親は裕福な家庭の出であり、母語は台湾語で北京語は話せない。お手伝いさんとの会話は日本語である。彼女の畳敷きの部屋には、浮世絵や原節子のポスターなど、日本に住んでいた頃の思い出の品に満ちている。元夫は反政府活動家で獄中にあるらしい。
新米教師である娘(林家宇)はアメリカ文化の影響を受け(彼女の部屋にあるのはジェームズ・ディーンのポスター)、学校の同僚である外省人(第二次大戦後、大陸から台湾に渡ってきた人々)の青年(施易男)と恋仲になる。母と娘の関係はどこかしっくりといっていない。母親は娘に対して抑圧的にふるまい、価値観の違いや文化的な断絶も加わって、大きな心理的距離を生み出しているように見える。
この母娘の密かな相克と、権威的と見えた母が抱えていた自らの抑圧…個々人のまったくプライベートな領域にもいやおうなく介入してくる、台湾の政治的・社会的現実が画面に凝縮されていて、観ごたえ十分だった。
この映画が台湾の女性作家、李昴の短編を原作にしているというので、翻訳があるかと思って調べてみたが、残念ながら未訳のようだ。何年か前、社会人を対象にした台湾文学の連続講義を受けたことがある。そのときには当方の知識不足で、せっかくの貴重な内容もあまり記憶にとどまらず、かろうじて李昴や白先勇など、現代の台湾作家の名前や経歴だけが頭のどこかにひっかかっていた。
まことに現金なもので、映画を観たことで俄然、原作者にも興味がわき、その時のハンドアウトやノートを引っ張り出して読み直してみた。また、昨年買い求めた、上海や台湾文化を特集した雑誌に、上野千鶴子による李昴への評論が載っていたことを思い出し、それも読んでみた。そして文中の次の一節に目が釘付けになった。
『シンポジウムで、李昴は「鬼」について発言をした。そのなかで彼女は「鬼」を定義して、「普通の人にはできないことをやる存在」と呼んだ。この明快で完璧な定義にわたしは感嘆したのだが、というのも、鬼が普通の女にできないことをする、のではなく、女が尋常でないことをすると、結果としてオニと呼ばれるのであって、その因果関係は逆ではない。そこでは、オニというのは「過剰さを抱えた女」の代名詞である。』
(『中華モード』20号/2004年 上野千鶴子「『単なるフェミニズム文学ではない』? 李昴文学に見るジェンダー・民族・歴史」P73)
そうだ、まさにそうなのだ。『月光の下、我思う』で施易男にすがったときの楊貴媚は、自分の意志ではどうにもならない情念の虜と化していた。人はそれをあさましい「オニ」の所業と謗(そし)るのであろう。若い頃の私だったら、じっとりとまとわりつくような空気を醸し出す、このような映画を好きではなかったし、そもそも理解できなかっただろう。
しかし、誤解を恐れずに言えば、しかるべき年齢のときに出会って初めて体感できる類の映画というものがある。今このときに、自分がこの作品にめぐり合ったことは、深い縁(えにし)であったかもしれないような気持ちにさえなる。人間はだれもが、ある種の過剰さを抱えて生きている。しかし女だけが「オニ」と呼ばれることの理不尽さを、多少は身をもって経験し、そしてこの作品に出会えたわけだから。
(2005年11月8日)
text by イェン●プロフィール
大学で西洋の映画の講義などをするが、近頃では、東アジア映画(日本映画も含む)しか受け付けないような体質(?)になり、困っている。韓流にはハマっていない、と言いつつドラマ『大長今』(チャングムの誓い)に熱中。中国ドラマ『射[周鳥]英雄傳』も毎回楽しみで、目下ドラマ漬けの日々。
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