日本と香港映画の架け橋−キャメラマン、西本正
10月の東京国際映画祭に始まり、東京FILMex映画祭、12月初旬に開催された国際交流基金フォーラムの西本正特集で、3ヶ月に渡った私の「映画祭通い」はひとまず区切りがついた。好きで見に行っているとはいえ、映画のはしごで週末がほぼつぶれてしまうのは結構くたびれる。しかし、映画を見るだけでなく、ゲストを招いてのティーチインやトーク、シンポジウムなどの企画が盛りだくさんなのも映画祭ならではの楽しみであり、この醍醐味を知ると病みつきになってしまうのだ。
さて今回は、一番記憶も新しい西本正特集を話題にしようと思う。映画の特集といえば、国名を冠した映画祭か、巨匠監督や人気俳優の回顧上映が一般的な形としてある。しかし国際交流基金フォーラムでは、「香港映画の黄金時代」と銘打ったユニークな特集を組み、これが2回目。前回は香港の映画会社キャセイにスポットがあてられ、東宝との合作『香港の夜』『香港の星』『ホノルル‐東京‐香港』の3部作などが上映された。今回は日本と香港の映画界をつなぐキイ・パーソンであった、キャメラマンの西本正に焦点を合わせていて、これまた異色の切り口となっている。
1921年生まれの西本正は少年の頃、両親が亡くなった為、満州にいた姉夫婦に引き取られ、日本の国策映画会社として設立された満州映画協会(満映)の技術者養成所で学んだ。その後、満映で撮影助手となったが、終戦の翌年に帰国して新東宝に入社した。1957年には、香港のショウ・ブラザーズが韓国との合作で本格的なカラー作品を作ることになり、ランラン・ショウ社長の依頼を受けた新東宝が、技術指導者として彼を香港に派遣した。そこで2本の映画撮影を担当し、一旦帰国。中川信夫監督と組んで、今回の特集でも上映された『東海道四谷怪談』などを手がけた。
1959年にシネマスコープ撮影技術指導のため、再度招聘されて香港に渡り、それ以降、1996年までの38年間を香港で過ごすことになる。西本は賀蘭山(ホウ・ランサン)という中国名で、李翰祥(リー・ハンシャン)監督の『梁山伯と祝英台』、胡金銓(キン・フー)監督の『大酔侠』などヒット作のキャメラマンをつとめ、深い信任を得る。
また一方では、彼の推薦によって日本から井上梅次や中平康などの監督も招かれ、60年代後半に日本の人気映画のリメイクなどが香港で次々と作られることになった。井上梅次は、『嵐を呼ぶ男』をはじめとした石原裕次郎主演の一連のヒット作を手がけた職人監督である。今や香港のお家芸の感がある、早撮り、低予算の合理的な撮影スタイルをそもそも当地にもたらしたのは、この井上監督や西本キャメラマンらしい。
井上は、西本のキャメラで、三人姉妹それぞれの恋模様をミュージカル仕立てで描く『香港ノクターン』(自作『踊りたい夜』のリメイク)を撮るが、このとき長女役だった鄭佩佩(チェン・ペイペイ)のことを、「時代劇専門のくせに、実にリアルな芝居をする女優で、安心してみていられた。」と回想している。また『嵐を呼ぶ男』のリメイク『青春鼓王』で裕次郎の役をやった凌雲は、タイロン・パワーに似た二枚目だったが、福建語なまりの北京語だったのでラッシュを見たスタッフがどっと笑った、というエピソードを自著で紹介している。(『窓の下に裕次郎がいた』文藝春秋/NESCO/1987年)
さらに中平康も西本と組んで、自作『狂った果実』のリメイク『狂戀詩』を撮るが、こちらは、まさに裕次郎のそっくりさんとして金漢という俳優が起用されている。実をいうと『狂った果実』は未見だったが、国際交流基金フォーラムの上映で『狂戀詩』を見た直後に、CSで放送された『狂った果実』を見ることができた。香港版がシネスコのカラー作品なのに対し、オリジナル版はモノクロ・スタンダードだが、カットやカメラアングルまでそっくりの部分が多い。
ただ決定的なのは、役者の魅力の差であるように私には感じられた。対照的な性格だが仲のよい兄弟が、ひとりの女性をめぐって破滅的な運命をたどる。兄弟を演じた石原裕次郎、津川雅彦と、兄の友人役の岡田真澄が、眩しいくらいに若く瑞々しいのにはほんとうに驚かされた。これら魅力的な日本の俳優陣に対して、残念ながら、香港版のほうはかなり見劣りがする。ただ、ヒロイン役の胡燕[女尼](ジェニー・フー)は、彫りの深い顔だちと伸びやかな姿態でエキゾティックな魅力をふりまいている。彼女は当時の人気スターだが、今では香港の若手俳優テレンス・インの母親という方が知られているかもしれない。
さて、話を西本正に戻そう。1969年にショウ・ブラザーズをやめフリーになるが、ショウ・ブラザーズから独立してゴールデン・ハーベストを起こしたレイモンド・チョウの依頼で、ブルース・リーが監督・主演する『ドラゴンへの道』のキャメラを担当することになる。
まだ無名だった頃、ブルース・リーは、ショウ・ブラザーズに自分を売り込んだが断られ、ライバル会社のゴールデン・ハーベストから映画デビュー。『ドラゴン危機一発』と『ドラゴン怒りの鉄拳』が大当たりをして、一躍スターの地位を獲得したことはよく知られている通りだ。ブルース・リーの信頼を勝ち得た西本は、次の『死亡遊戯』の撮影も任されたが、アメリカ映画『燃えよドラゴン』への出演が先になり中断。そしてリーの死により映画は未完となった。
今回、西本正特集が組まれることになったのは、『香港への道−中川信夫からブルース・リーへ』(筑摩書房/2004年)という西本正のインタビューをまとめた本が出版されたことがきっかけらしい。なんと足掛け20年がかりで山田宏一と山根貞男が編集したものだが、これまで断片的に知っていたにすぎない香港映画のさまざまな側面が、本書によって、あたかもパズルにはまるようにきれいな輪郭をなしていく思いがして、一気に読んでしまった。
西本正は1996年に病のため日本に帰り、97年1月、香港の中国返還を見ることなく76歳で亡くなった。その少し前には、奇しくも彼とゆかりの深い李翰祥と胡金銓が相次いで亡くなっており、香港映画の一時代が確かに終わったとの感を、人々に抱かせたのである。
(2004年12月17日)
text by イェン●プロフィール
映画史研究を専門とする。香港・台湾電影と中華ポップスを愛好。目下、アメリカで出版された香港映画研究書の翻訳に悪戦苦闘中。
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