「アジア映画」の可能性?
日本でもアジア映画ファンの間では早くから注目されていた話題作、陳可辛(ピーター・チャン)監督の『パーハップス・ラブ』(如果・愛)と陳凱歌(チェン・カイコー)監督の『PROMISE』(無極)が、香港では12月に相次いで公開になった。それに関連して12月12日付の香港の日刊紙『明報』に、次のような見出しの興味深い記事がのった。
「華語大片中港韓日卞士求回本」
(中国語大作映画は中港韓日キャストで資金回収をはかる)
記事の趣旨はこうだ。
この二つは大作で、中国・香港だけでは資金が回収できないため、他のアジア市場を視野に入れている。『無極』のような超大作だと、中・日・韓のスターだけではまだリスクがあり、張柏芝や謝霆鋒を起用している。香港スターの存在は、内地での興行成績を保証するからだ。
『如果・愛』で金城武が加わっているのは台湾というよりは日本市場向けだ。しかし彼だけで興行成績を保証できるわけではなく、日本の出資もないとなると、作品の中身が問われるだろう。韓国市場では、陳可辛、陳凱歌両監督の知名度は高く、そもそも心配はないが、チ・ジニやチャン・ドンゴンといった有名スターの起用で配給権はさらに有利になる。
中国語映画のアジア化は大きな趨勢だ。なぜなら、香港市場は景気が悪く、内地は海賊版や不法ダウンロードが蔓延しているので、資金を回収できない可能性が極めて高いからだ。もし、両地域の市場がもっと発展すれば、自前のスターだけで十分なはずだ。
この記事では、中国映画の「アジア化」というのは、より広い市場を開拓するために、単に日本、韓国の俳優をキャスティングすることを意味しているようだ。しかし香港・内地の市場が今後「健全」に発展するならば、わざわざ外国俳優を起用するまでもないという結論まで出ている。
いま、この結論の是非はひとまず置いておくことにして、映画が大作化すればするほど、国内だけでの資金回収は難しくなり、多国籍化するという点を考えてみたい。映画が大作化するのは、ハリウッド超大作映画への対抗という意味がまずあるだろう。ここで、思い出すのは、1990年代半ばに、ヨーロッパの映画関係者の間で同じような議論が起こったことだ。
映画産業は製作だけではなく、配給、公開も含めた総合的なビジネスである。製作資金の高騰だけでなく、膨大な広告宣伝費をかけて、ハリウッド映画に対抗するためには、ヨーロッパ各国がそれぞれに作っている低予算映画ではとても無理であり、各国が資本を出し合って「ヨーロッパ映画」の大作を製作しようではないか、というのが主張だった。イギリス出身の辣腕大物プロデューサーである、デヴィッド・パットナムなどがこの急先鋒だったと記憶する。
このような経済合理主義的な発想もある一方、各国の歴史・文化的な独自性を犠牲にした「ヨーロッパ映画」などは意味がないという反論やら、いや、ヨーロッパ共通の価値観や理念を持つヨーロッパ映画を作ることは可能であるという理想論まで、実に様々な意見が表明されていた。
それから10年後、いまやアジア地域が似たような状況を迎えたわけだ。 関係者の本音は、「明報」の記事のように、市場開拓や資金回収という経済的必然性から要請される「アジア化」という発想にとどまっていることは否めない。しかし、一歩進めて、共通の理念や価値観を持った「アジア映画」の可能性はあるのだろうか?
『無極』は、神話的で超歴史的な背景を持ち、どことも特定されない架空の場所で起こる寓話もしくはファンタジーである。中国を舞台にしているわけではないので、アジア各国の俳優が一同に会しても、言葉の問題は別として、物語の展開上は無理がない。この作品は、女神の予言に託して、運命に翻弄される人間を描くという点で『マクベス』を連想させもする。
ひょっとしたら陳凱歌は、シェイクスピア劇のように各国で独自に翻案され、様々な国の人間が演じても全く違和感のない、普遍性をもつ作品世界を創造するという野心を抱いたのかもしれない。その作品世界が「アジア」という共通の文化に支えられたものなのか、それとも、欧米市場を意識したアジア趣味(オリエンタリズム)に過ぎないと評価されるのか、それは実際に見た観客の判断にゆだねられることになるだろう。
(2005年12月27日)
text by イェン●プロフィール
大学で西洋の映画の講義などをするが、近頃では、東アジア映画(日本映画も含む)しか受け付けないような体質(?)になり、困っている。韓流にはハマっていない、と言いつつドラマ『大長今』(チャングムの誓い)に熱中。中国ドラマ『射[周鳥]英雄傳』も毎回楽しみで、目下ドラマ漬けの日々。
|
|