映画『東方不敗』を読みとく(後編)
2.エスニック・グループ
この映画では、登場人物たちは、いくつかのエスニック・グループに分かれる。主人公で武林(武術界)の人間である令狐冲と兄弟弟子や、朝廷側の漢人たち。東方不敗や任教主が率いる苗族。そして秀吉の天下統一を嫌って中国沿岸に亡命してきた日本人武士の残党である。
興味深いのは、苗族の人間を令狐冲らが日本人と間違うエピソードが2箇所出てくることだ。最初は、東方不敗が監禁している前教主、任我行の居所をつきとめるため、東方不敗と手を組んでいる日本人グループに潜伏している向問天(任我行の腹心)を、令狐冲らは日本人の追っ手と思い、剣を交えるシーン。おもしろいことに、民族の違いを明らかにするのは、言葉ではなくそれぞれの剣法からなのである。
次は満月の夜、令狐冲が相手を東方不敗と知らずに酒を酌み交わす場面。東方不敗は終始言葉を発しない。令狐冲はこの人物の外見と居た場所から、東方不敗を日本人の女性と思い、次のように言う。
「[イ尓]是扶桑人,所以不知道我説甚麼。這也好。人的話意思太多,還有口是心非的,這就是天下所有是非的来源。」
(君は日本人だから、私が何をいっているかわからないだろう。それもよし。人の話には含むところが多いし、心にもないことを言うこともある。これこそ、世の中のいざこざの元だからね。)
「也許[イ尓]永遠都不知道我説甚麼,那我[イ門]永遠都不會有恩怨。如果毎個人都是這様,我[イ門]也不用退出江湖了。」
(言っていることが永久にわからなければ、永久に憎みあうこともない。みんながこのようであれば、江湖を去ることもないのだが。)
言葉は誤解や諍いのもとであるから、お互いの意思が通じなければ、誤解も生じることがなく、いっそ好ましいというのである。令狐冲は酒の相伴をしている人物のジェンダーとエスニシティを二重に誤解しているのだが、その誤解を東方不敗はむしろ楽しみ、心地よくさえ思っている。東方不敗はそれ以後、令狐冲には自分の正体を知られまいとする。
しかし映画の終盤、令狐冲は、この女性が仲間を殺した仇である東方不敗であると知り、しかも自宦した男性であったことを知らされる。しかし彼には、一夜をともにし、詩詩と名乗った女性が果たして東方不敗であったのかどうか、最後までわからない。
壮絶な戦いの末に、黒木崖から落下する東方不敗をかろうじて抱きとめ、「君は詩詩なのか」と必死に尋ねる令狐冲に対し、東方不敗は艶然と笑って言う。「絶対に教えはしない。おまえを一生後悔させるため、そして私を永遠に忘れさせないために…。」そういうと、令狐冲の手をふりきり、衣をはためかせながらゆっくりと落下していく。
多くの人物が手に入れるために命をかけた、究極の武芸の秘伝書である葵花宝典は、東方不敗が身にまとった紅い上着の内側に隠されている。実のところ葵花宝典とは、アイデンティティの比喩なのかもしれない。真実の私とは何なのか? しかしその秘密は、落下する東方不敗の肉体とともに海底深く沈んでいってしまうのである。
3.東方不敗とは誰か
映画『東方不敗』の最大の成功要因が、原作では脇役にすぎない東方不敗を大きく改編し、エキゾチシズムに満ち、性別不詳でミステリアスな、美貌の敵(かたき)役に仕立て上げた、キャラクター造型の見事さにあるというのは衆目の一致するところだろう。
先に述べたように、東方不敗のアイデンティティは多様で分裂し、ジェンダーもあいまいである。彼/彼女は苗族の出自ではあるが、状況によっては漢人にも日本人にも見える。葵花宝典にある武芸の奥義を極めるために自ら去勢し、武術の修練が深まるのに比例して、肉体上の変容も進む。(声の変調がそれを象徴的に示している。)しかも肉体の変化とともに、彼/彼女の意識や欲望までもが微妙に変わっていく。
東方不敗が正体を隠して令狐冲と酒を酌み交わした晩、令狐冲は酔いにまかせて一篇の詩を口ずさむ。
「天下風雲出我輩,一入江湖歳月催。皇国覇業談笑中,不勝人生一場酔。」
(乱世に生を受け、戦いの中に歳月が過ぎた。天下覇業は容易に成れども、人生の一
度の酔いにも勝りはしない)
この詩で詠まれる令狐冲の人生観は、天下統一の野望に燃える東方不敗のそれとは相容れないはずだ。しかし、令狐冲や任我行らとの決戦のさなか、東方不敗はこの詩を口にする。大軍を率いて中原に向かう激しい意志から、人生の空しさ、戦いの虚しさを嘆く心境に変わっている。その弱気を見ぬいた任我行は、男でも女でもなくなった東方不敗の身体を揶揄し侮蔑する。
男か女か、敵か味方かという二元論が強い世界にあっては、両義性は往々にして否定的に捉えられる。あいまいなジェンダーは人間性の喪失にもつながるとみなされるのだ。東方不敗は、自分の野望のためには、何びとも犠牲にして省みないというデモーニッシュな存在に想定されていたはずである。
しかし、両性具有的な東方不敗は、結果的に観客を魅了してしまうことになる。彼/彼女がしだいにアイデンティティの迷路にさまよいこんでいく姿に、香港の少なからぬ観客は、どこに帰属しているのか定かではない香港の行く末と、そこに住む自分とは一体何者なのか、という思いを重ねあわせていたのかもしれない。
この映画が作られた1992年という時期、香港の人々は、天安門事件のショックから癒えないまま、近い将来にやってくる香港返還という事態を見据え、中国という「祖国」復帰への懐疑、自らの中国人としてのアイデンティティに深刻な疑いを抱いていたことは多くの論者が指摘しており、この作品にもそれは明らかに見て取れる。けれども、同時にこの映画は、漢人−苗族−日本人というトライアングルを設定することで、観客が単一のエスニック・アイデンティティへと回収されることを免れているとも言える。
中国的知識人からすれば、香港の武侠映画は「歴史痴呆症」とでも呼びたいほどに、史実からかけ離れているかもしれないが、それは同時に、中国のナショナリズム構築の神話にも寄与しない。歴史や伝統文化が総動員されて壮大な物語を紡ぎあげ、中国民族としてのアイデンティティをゆるぎないものとするのに奉仕するような、大作歴史映画とは対極にある、このポストモダン的武侠映画を、私が愛してやまない理由はそこにある。
(2006年4月15日)
text by イェン●プロフィール
大学で西洋の映画の講義などをするが、近頃では、東アジア映画(日本映画も含む)しか受け付けないような体質(?)になり、困っている。韓流にはハマっていない、と言いつつドラマ『大長今』(チャングムの誓い)に熱中。中国ドラマ『射[周鳥]英雄傳』も毎回楽しみで、目下ドラマ漬けの日々。
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