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asicro column

更新日:2007.2.5

電影つれづれ草
アジア太平洋映画祭

 台北で開催された第51回アジア太平洋映画祭が、11月24日、最優秀作品賞にイランの『The Unwanted Woman』を選出したほか、各賞を発表して閉幕した(注1)

 会期中、台湾や香港の娯楽ニュースでは、授賞式のプレゼンターとして、海外からジョン・ウー(呉宇森)、チョン・ウソン、瀬戸朝香、スティーブン・フォン(馮徳倫)、ルイス・クー(古天樂)らが招かれたほか、ヤン・クイメイ(楊貴媚)、ジェリー・イェン(言承旭)、ピーター・ホー(何潤東)、チェン・ボーリン(陳柏霖)ら台湾スターが務めることが大きく報じられた。また「東方神起」(韓国)のステージ・パフォーマンスなどの華やかな話題も大きく取り上げられていた。

 この映画祭は、毎年加盟国(現在は21の国と地域)が持ち回りで開催するというユニークな方式をとり、1954年に第1回が東京で開かれて以来、半世紀あまりの長い歴史を誇る。しかしその割に、日本での知名度があまりないのはどういうわけなのだろう。しかも日本以外のアジア各国、特に主催国では、ビッグイベントとして大きく報道されているようなので、日本でのマスコミの冷遇ぶりと比べると、そのギャップは大きい。

 そこで、この映画祭について調べてみようと思い文献を探してみたが、ほとんど見当たらなかった。かろうじて、ある映画ファンの運営するウェブサイト(注2)に、詳細な歴史や、毎年の開催地と受賞リストが載っていたので、それが大変参考になった。しかし、その執筆にあたっては、資料の収集等に大変な労力が必要であったことが一読してわかる。それほどに、この映画祭についてのまとまった文献や資料というのはないのだと思われる。

 先に触れたように、日本は第1回目の開催国であり、これまでのところ、最多主催国でもある。そもそも、この映画祭は、1954年、当時の大映社長で日本映画界のドンであった永田雅一が、シンガポールを拠点に東南アジアに強力な映画興行テリトリーを有するランラン・ショウ(邵逸夫)と組んで、日本映画のアジア進出を視野に入れて創設したものであった。

 発足当初は東南アジア映画祭といい、加盟国の拡大に伴ってアジア映画祭となり、さらにアジア太平洋映画祭と改称された。ランラン・ショウは、映画祭創設から数年後の1957年に香港に移り、映画製作会社ショウ・ブラザーズの社長に就任する。

 1950年代は日本映画の黄金時代といわれ、黒澤明、溝口健二、衣笠貞之助らが相次いでベネチアやカンヌなど、ヨーロッパの著名映画祭でグランプリ(最高賞)を受賞した時期としても記憶される。それら巨匠の受賞作の多くは大映作品であり、その背後には社長兼製作者としての永田雅一がいた。彼がもくろんでいたのは、ヨーロッパにおける日本映画の発揚にとどまらず、文化や習慣が似ているアジア市場の開拓だった。(注3)

 このような発足当時の事情もあるのか、アジア太平洋映画祭は、参加各国の映画製作者らの交流・懇親の場としての色彩が強く、映画祭参加作品は、一般公開がなされない場合もあると聞く。また、大量の賞が用意されていて、参加各国に分配される傾向があり、コンペティションとしての実態を欠くという批判もある。しかし、アジア諸国において、この映画祭の知名度は非常に高く、映画人のフィルモグラフィーには、この映画祭での受賞歴が銘記され、映画ポスターにも「アジア太平洋映画祭○○部門で受賞」と、高らかに宣伝されるほどの権威を持っているとのこと。

 今回の台北での開催においても、現地の新聞では「アジア中が注目する映画祭」等々の表現がみられたが、日本での関心の低さを知るにつけ、「日本以外のアジア各国ね」などと思わずつぶやきたくなる。確かに発足からしばらくの間は、日本が牽引役になっていたようだが、最近では、この映画祭における日本の存在感は非常に希薄だ。各国がその年の代表作と呼べる作品を出してくるのに対し、日本からの出品作は、どうしてそれが選ばれたのだろうかと、首を傾げるものも少なくない。

 日本がこの映画祭に距離を置くようになった理由は、もっと調べてみないと不透明な点も多い。70年代から日本映画が不振に陥ったということもあるだろうし、永田雅一以後の映画製作者の中に、アジアを有望な市場と見なしたり、(アート映画ではなく)大衆映画によってアジアと日本との交流を意図したりするような後継者が存在しなかった、ということも理由の一端なのだろう。

 思えば、永田雅一のもくろみは、韓国が映画やドラマでアジア全域に市場を拡大し「韓流」旋風を巻き起こしたことを、半世紀前に先取りしようとしたと言えなくもない。残念なことに、その意図は日本では定着しなかった。

 しかし時がたち、長らくアジアのポピュラー文化に目が行かなかった日本でも「韓流」が定着し、「華流」も次なるチャンスを窺っており、現在は大きく事情が変わった。中国が加盟していないなど、政治上でもいろいろな問題を抱えながら、アジアで最も古い歴史を有するこの映画祭を大いに盛り上げていくために、日本が積極的に果たすべき余地は、いまだ少なくないように思う。

*注1第51回アジア太平洋映画祭公式サイト
*注2:DAY FOR NIGHT 開設7周年記念特別企画
   「誰も知らない?映画祭 アジア太平洋映画祭・幻の半世紀」
*注3:四方田犬彦『アジアのなかの日本映画』(岩波書店/2001年)
    P225-230

(2006年11月25日)

text by イェン●プロフィール
大学で西洋の映画の講義などをするが、近頃では、東アジア映画(日本映画も含む)しか受け付けないような体質(?)になり、困っている。韓流にはハマっていない、と言いつつドラマ『大長今』(チャングムの誓い)に熱中。中国ドラマ『射[周鳥]英雄傳』も毎回楽しみで、目下ドラマ漬けの日々。

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●筆者関連本情報:
『男たちの絆、アジア映画
 ホモソーシャルな欲望』
(四方田犬彦・斎藤綾子共編)
 4月刊行 平凡社/2525円

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